すべての道はセント・アンドリューズに繋がる
By MASA NISHIJIMA

 

Chapter 1

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アリスター・マッケンジー

欧米の専門家たちには、私、マサ・ニシジマを、コース設計家C.H.アリソン研究の第一人者と述べて下さる。アリソンの代表作が日本に残されていることからそのように評して下さるのかも知れないが、私たちの年代は、それぞれに自身の研究テーマを持っていたのは事実だ。例えばドラール・ブルーモンスターの改造やオリムピックコースの設計でも知られるギル・ハンスは、若かりし頃、コース設計界の巨匠ハリー・コルトの研究に没頭していた時期がある。我孫子の改造を担当したブライアン・シルバは、米国クラシック設計の基盤を成したC.Bマクドナルド&セス・レイノーの研究を纏めた論説文をコース設計家協会(ASGCA)に提出された。90年からGOLF Magazineで、米国ゴルフコース設計家の世界と題し、現代の設計家たちを紹介、PRした連載シリーズを3年かけて担当したことがある。その中で「自身が最も理想とする設計家は?」と尋ねると、大半の方たちが、アリスター・マッケンジーか、巨匠ドナルド・ロスと答える。C.Bマクドナルド&セス・レイノーと答えたのは、ピート・ダイ親子だけだった。
オーガスタナショナルを設計したアリスター・マッケンジーを最も探求した人物は「The Life and Work of Alister Mackenzie」の著者でも知られる現代のコース設計家の巨匠トム・ドォークに他ならない。もちろんベン・クレンショウもそのひとりだが、ベンの場合は、戦後のファストグリーン時代に改良されてきたマッケンジー作品をトッププロとしてプレーし、その経験から研究されてきた。トムは戦前のマッケンジー作品のオリジナルに自らの設計哲学と理論を置いている。近い将来、オーガスタナショナルは更なる改良と過去への復元の作業が必要になる。その時、彼ら二人の才能と見識は、老巧トム・ファジオに代わって、明日のマスターズの舞台を作ることになるでしょう。

アリソンはコルトの生涯の設計パートナーであった。そして二人を探究していくとコルトによって、その才能を見出されたマッケンジーの設計の側面を学ぶことができる。オーガスタナショナルの18ホールの設計理論とその歴史を語る前に、マッケンジーという英国に設計家としての系譜を持つこの男が、どのようにして近代モダン設計に繋がるゴルフコース設計のバイブルとなったオーガスタナショナルを造り上げたのか、これを今から解説していきたい。

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1895年、真冬のマグノリアレーン。オーガスタナショナルが完成されるはるか以前からこの正門は、バークマンズ男爵家所有のフルーツ農園の入口として存在していた。現在のクラブハウスも、元はバークマンズ家のマナーハウスであった。

Chapter 2

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ボビー・ジョーンズとマリオン・ホリンズ

さてマッケンジーがオーガスタに辿り着くまで、彼の設計哲学を語る上で、まず最初に知って頂きたいことがある。それはマッケンジーが球聖ボビー・ジョーンズと出会い、オーガスタに導かれるまでのストーリーの中で、日本では詳しく紹介されていない女性アマの存在である。カリフォルニア州モントレーに発表した彼の傑作サイプレスポイントGCで出会い、そのコースに感銘したジョーンズはマッケンジーに設計を要請された話しは有名であるが、大事なひとりの女性アマチュアゴルファー、マリオン・ホリンズ(正しくはメィリオンの読み)を忘れてはならない。彼女の父は、ニューヨーク、ウォールストリートで証券会社を所有し、謂わば、銀行をつくる男としても知られた。ロングアイランドに600エーカーの敷地に建つ豪邸には、乗馬クラブに3ホールのゴルフコースがあったというからセレブ中のセレブだ。そんな環境で生まれ育った彼女のアスリートの才能は、後にゴルフ、テニスのアマチュア大会を総なめするほどに成長していった。いわばボビー・ジョーンズの女性版的存在であった。
彼女は西海岸でいくつかの開発プロジェクトにタッチする。それは不動産開発、そしてゴルフ場であった。そのひとつにサイプレスポイントがあり、更に自身が全財産を投げ売って造り上げたという、サンタ・クルーズのパサティエンポゴルフコースと周辺の住宅開発等、これら二つコースの設計は、アリスター・マッケンジーでした。彼女はオーストラリアのロイヤルメルボルン、ニューサウスウェルズ、サンフランシスコ北部のメドゥクラブの設計で一躍有名になったマッケンジーに注目、サイプレスポイントのパートナーに紹介し、更にパサティエンポの設計も依頼します。ボビー・ジョーンズをサイプレスポイントに呼び寄せ、マッケンジーを紹介するためのレターを書いた人物こそが、実は東海岸のトップアマ同士として親交の深かったマリオン・ホリンズだったのです。
彼女にはひとつのビジネス戦略がありました。完成されたばかりのサイプレスポイントに招待するだけでなく、当時まだ造成中であった自らが創設者のひとりになったパサティエンポのコースにも招き、メディアに話題を提供します。翌年のオープニング式典にもボビー・ジョーンズを呼び寄せ、大勢のギャラリーが彼を一目見ようとパサティエンポのあるサンタ・クルーズの丘に集まりました。

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Cypress Point

余談ですが、翌年、マッケンジー自身も、ひとりの旧友をデトロイトから招きました。その人物は、皆様たちもよくご存知のC.H.アリソンです。アリソンも当時、英国からゴルフ場開発が盛んな米国に渡り、ニューヨーク、デトロイトに事務所を設けていました。西海岸におけるマッケンジーの作品をすべて視察した彼は、ロングビーチ港から長い船旅に出かけます。太平洋を横断し、遠く日本を訪問するために。
ボビー・ジョーンズとマリオン・ホリンズ、米国が誇ったふたりのアマチュアゴルファーによって、マッケンジーは名声を得たと言っても過言でありません。カーティスカップ初代キャプテンにも任命された彼女の惨然と輝くアマチュア記録は、戦後になってインディアナポリス出身の女性によって破られます。その女性の名はアリス・オニール、後にピート・ダイの愛妻になられた方です。

Chapter 3

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マッケンジーが追い求めたオールドコースの神秘のアンジュレーション

マッケンジーの設計哲学の源が、セント・アンドリューズにあることはこれまで、ゴルフコース好奇心等の連載でも解説させて頂きました。オールドコースの波打つかのような砂丘の地形に、絨毯かのように敷かれたグランドレベルグリーン、更に彼をコース設計の世界に導いたコルトの作品でもあるイーデンコースにて、彼は、人間が造るマンメイドリンクスの世界でも、オールドコースの理念は描けると考えました。つまり神が創り賜うたリンクスの地形に人間がコース設計のためにどこまで手を加えてもよいものか、その境界線を彼は彷徨っていたのでしょう。マッケンジーは、神が造った等高線の美しさよりも、更に美しい世界をゴルフコースに求め、そして描こうとした。それは人間の想像性と実在するものを結びつける設計にも繋がったのです。

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その一つの例が、スコットランドの名門ノースベリックの#15番レダンホールです。マッケンジーが、単独で設計した最初の処女作であるムーアタウンGCの10番パー3は、ジブラルタルと称される世界的にも知られる名ホールのひとつです。

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Moortown GC #10 ジブラルタル

このホール、人工的なグリーンのフロント部分に、バンカーで掘削した土で波打つかのように盛り土し、オールドコースの11番ハイホールのフロントの形状に似せて造ったかのようなホールでした。ところが、グリーンがティから左手に45度角に切れるアングルにあり、更にマッケンジーが考案したカモフラージュバンカーはそのグリーンの角度に錯覚を与え、距離の判断ミスから、グリーン左奥を狙った打球は、バンカーに入る結果となりました。サイプレスポイントの監修プロでもあるロバート・ハンターは後に、このジブラルタルホールを、世界で最もタフなレダンホールと唱えました。しかしマッケンジーは、意外にもそれを造るまでレダンのオリジナルを見たことはなかったのです。彼は設計のイマジネーションの世界で、レダンの戦略性を更に高めるホールを創ってみせたのです。(PS. ハイホールの設計理論は後に、オーガスタの4番PAR3に生かされることになります。)

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彼は、更にそのリンクスの攻略理論の哲学に変化を加えた超えた「リバースレダン」(逆にフェード系に有利な右に45度角に切れる形状)の発想に進化していきます。これはオーガスタナショナルでは、旧16番ホールに描かれました。
しかしそのリバースレダンは、豪雨の時の管理状況の悪さから、R.T.ジョーンズ Srが、クリークとはまったく逆の位置にグリーンを移し、クリークを池にしたことから、逆に、オリジナルレダンの本質に近い内容のパー3になりました。我々はマスターズでは、かつてあったマッケンジーのリバースレダングリーンの上から、16番グリーンを観戦しているのです。
マッケンジーが、バンカーで掘った土をそのエッジの高さやマウンドに与え、グリーンコンプレックス全体を地形の傾斜に合わす独特な造成手法のスタートは、英国時代に設計したシトウェルパークGCで試されました。この発想は、実はセント・アンドリューズ、イーデンコース旧7番(現在の5番)からヒントを得て、彼は米国でこの造成法を自らの設計の美学に取り入れていきます。

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Sitwell GC Mackenzie UK

日本人で、このマッケンジーの設計哲学を肌で感じたトッププロがいます。中島常幸です。オールドコース17番のグリーン手前のバンカーが、トミーズバンカーと名称された由緒はご存知ですよね。更にマスターズでも、彼はニクラウスが懸念した「カップ周りが読めない1フィートのバリア」にはまり、ここでもヒーローから悲劇の人へと転落してしまった。中島常幸はオーガスタナショナルのコースをどう捉えていたのでしょうか。彼の眼には、マスターズの日々はどういう舞台に写っていたのだろうか。もし若かりし頃のニクラウスやクレンショウ、タイガーのように、コースを戦略的と考えるのでなく、トッププロとして、クラシック理論に裏付けされた攻略性を愉しみ、脳裏のどこかに、オールドコースをリンクさせていたならば、86年のグリーンジャケットはニクラウスではなく、中島常幸であったかも知れない。皮肉ではないが、78年、当時まだ23才だった男が、歴史あるオールドコース#17番、ロードバンカーの名称を、いつのまにかトミーズバンカーの呼名に変えてしまったのだから。彼は4大メジャーにおいて、明らかに青木功、ジャンボ尾崎より勝る実績を誇った。日本人で4大メジャーに、すべてTOP10入りを果たしているのは、何を隠そう中島常幸だけである。彼は、オーガスタナショナルの捉え方を僅かに変えるだけで、グリーンジャケットに袖を通した最初の日本人になれたはずだ。
今、その舞台に松山英樹が挑んでいる。もしオーガスタナショナルを制すれば、マッケンジーの設計哲学を生んだオールドコースでの全英オープンも制することは出来るはずである。既にビッグトーナメントで2勝を挙げている松山に必要とされるのは、80年以上前に、オールドコースの神秘に酔いしれた男たちが創り賜うたオーガスタナショナルのコースに惚れることである。とことん好きになることである。そう、ここでの神はアリスター・マッケンジーとボビー・ジョーンズのオールドコースへの精神なのだから。


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ゴルフコースコメンテーター&コースアドバイザー。東京生まれ。
明治大学卒業後、米国留学。
ドン・ロッシーの元でゴルフコースのクラシック理論を学ぶ。
現在まで世界56カ国2300コース以上を視察。
1989年より、米ゴルフマガジン誌世界トップ100コース選考委員会に所属。
1991年から2015年までは同委員会の国際委員長を務める。
「ゴルフコース好奇心」,「ゴルフコース博物誌」「The Confidential Guide 」などの著書もある