8つの全英開催コースの中で最も壮大なリンクスランド

 

 

 

 

1894年、スコットランドで行なわれていた全英オープン(The Open)が、34年の歳月を経て、はじめてイングランドで開催されました。その最初の開催コースこそが、今回のRoyal St. George’sです。

同年、米国ではUSGA(全米ゴルフ協会)が発足された年でもあります。つまりThe Openは四大メジャーの中で最も長い歴史とゴルフの権威を誇る大会であり、トッププレーヤーの誰もがこのThe OpenUS Openに優勝する事を最大の誇りとしています。

ゴルフコースがリンクスの地に造られた頃、それは砂丘と砂丘の間を這うようにホールが構成されていきました。しかし当時のホール構成は単純なものでした。一定方向に向かい、そして途中で折り返し戻ってくる。又は8の字のループを描くルーティングアイデアもありました。現在のアウト、インの言葉はこの当時のリンクスにあるゴーイング・アウト、カミング・インの1ループのルーティングからきているのです。

 

  

 * クラシックリンクスのルーティング例

 

 

ロイヤル・セント・ジョージスは100年以上の歴史を刻むリンクスコースでありながら、18ホールの構成は当時としては特筆なものでした。用地が正方形に近いことから、ホールの流れは四方に向くよう構成され、その結果、ホールごとに風の向きは大きく変わってくる特徴が生まれました。古いリンクスコースは長い歳月の中で、ホールの流れを変える改造をしてきたものが多いのですが、このロイヤル・セント・ジョージスはホールのヤーデージこそ変化はしましたが、18ホールのレイアウトは3番と6番のパー3を除き、ほぼ開設当時のままなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

* Royal St. George’s 18ホールレイアウト図

 

 

晴天が続くこの時期、リンクスの地盤は固く、打球は異常なまでの転がりを見せるでしょう。

フェアウェイに対して砂丘の起伏(Contour)が横に流れるエリアは比較的安全でありますが、縦に砂丘の起伏が流れている所に打球が落ちれば、球は自ずと左右にどちらかに跳ねて、深いラフへと転がり落ちる危険もあります。特に砂丘の起伏の変化が激しいアウトの1, 2, 4, 5, 8番、インの12番辺りは風を計算してのプレイスメントショットは絶対条件になります。しかしコースの鍵を握っているのは13番から最終18番ホールでしょう。それまでのホールに比べ、フェアウェイは比較的広く、起伏も穏やかになります。しかしスコアが伸ばせなかった時の人間の欲と風の計算をミスすれば、深いラフやバンカー群のリンクスの罠に嵌る結果ともなります。スコアを伸ばす人、落とす人、勝負の分かれ道は後半の6ホールにかかってきます。

 

 

 

 

 

 

 

* Royal St. George’s #4番の名物バンカー「ヒマラヤ」

 

このコースの特徴としてはグリーンの形状にあります。何と12ホールが古いリンクスに見られる縦長グリーンなのです。縦長グリーンは幅がないだけに横風が吹き荒れた時にその恐ろしさを発揮します。グリーンサイドに乗ったはずの球が、自然のアンデュレーションによってグリーンサイドに転がり落ち、バンカーへと流れてしまうホールも数多くあります。大会四日間の間、あっと驚かれる、非情とも思えるようなシーンを幾度かは見られる事でしょう。しかしこれはロイヤル・セント・ジョージスという名門が、クラレットジャグに挑戦するゴルファー達に向けたリンクスの掟と定めなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スコットランド ゴルフの聖地St.Andrewsに対抗して名付けられた。

ロイヤル・ウィンブルドン・ゴルフクラブのメンバーのひとりで、ロンドン在住ながらも生粋のスコットランド人ゴルファーのひとりであった眼科医のパーベス博士がこのサンドウィッチの地にやってきたのは1885年の事でありました。彼はドーバーに行く途中、Sandwich(サンドウィッチ)湾に面する壮大な砂丘地帯(リンクスランド)を一目見るなり、ここにゴルフコースを造る決意をします。ロンドン及びケント県の有志達を集め、Sandwich Golfing Associationを設立、博士自らが設計を担当し、1887年にこの難コースは完成に至るのです。そして1891年、スコットランドのセント・アンドリューズに対抗するかのように、このクラブもこの地方の守護聖人のひとり、聖ジョージの名をとり、St.George’s GCと改名します。その後、プリンスオブウェールズがメンバーとなった1902年、エドワード7世から晴れてロイヤルの称号を受け、現在のRoyal St.George’s GCとなったのです。

 

 

 

 

 

 

Royal St.George’s GCにみる全英オープンの栄光と悲劇

開設から僅か7年後の1894年イングランドで初のThe Openがここで開催されましたが、1922年のここでのThe Openでは、米国人プロであるウォルター・ヘーゲンが勝利しますが、18番ホールのグリーンで大変な悲劇が起こりました。2年前、隣町DealにあるRoyal Cinque Ports(ロイヤル・シンクポーツ)での全英を制したスコットランド人ジョージ・ダンカンはこの年も絶好調で、17番ホールを終えるまでは、へーゲンを2打リードしていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

*悲劇の人George Duncan

 

しかし悲劇は次の18番グリーンで起こります。彼はここのグリーンの罠に嵌ってしまうのです。グリーンを捕らえた打球は非情にもグリーン左サイドに流れ落ち、そこからピンを狙うが、非情にも勾配の強いグリーン左サイドは彼の打った球をまたグリーン外へと転がしてしまったのです。結局これが原因で、一打差でダンカンはヘーゲンに敗れるのです。

ダンカンのこの悲劇を後世に伝える為、この18番グリーンの左サイドから奥への勾配の窪みをDuncan’s Hollow(ダンカンの谷窪)と名称したのです。

 

 

 

 

 

 

#18番グリーン

 

さて優勝したヘーゲンはプロとして財界の大物達をパトロンに従えるほどの脚光を浴びていた人物でした。人間性も大らかで特に大会でパートナーを務めるキャディーをマスコミの表舞台に出したのも彼が最初でした。この大会で彼は地元の老巧キャディーと巡り合います。スキップ・ダニエルズというこの男は、この難コースのすべてを知り尽くしているベテランでした。ヘーゲンは優勝の席で「彼ともし巡り合えなければこの難コースを制する事は不可能であっただろう」と述べます。それから6年後の28年、またも全英はこのSt.George’sで行なわれました。ヘーゲンの友人であったジーン・サラゼンは、全米は勝てど全英では過去二度とも大敗をきしていました。そんなサラゼンに彼は自らのキャディーであるダニエルズを与えます。ダニエルズをパートナーにしたサラゼンはそれまで苦しめられていたリンクスでのゴルフがまるで嘘のように快調なスタートを切ります。しかし二日目の14番パー5、スエズ運河の名称を持つクリークが横切るこの名物ホールで、Sandwichの女神はサラゼンが全英の勝利者に相応しいかを問いかけるのでした。深いラフに入った彼の球を見て、ダニエルズは5番アイアンを渡しますが、サラゼンはそれを振り切り、何とスプーンを選択します。しかし彼の打った球は僅か前進するのみでフェアウェイにも届きませんでした。カっとなったサラゼンは更にそこでもスプーンを使い、ミスショットを繰り返します。結局これが原因でサラゼンは7打を叩き、優勝戦線から外れるのです。またもここでの大会を制したのは、それまでダニエルズからリンクスプレーの掟を学ばされていたヘーゲンだったのです。

 

 

 

 

 

 

 

* Gene Sarzenの著から My favorite Caddy

 

サラゼンは自らの過ちと反省をもとに、4年後の32年に同じサンドウィッチにあり、セント・ジョージスと隣接するPrinces Golf Clubで行なわれた全英で、ダニエルズを再度キャディーに従え、念願の優勝を成しえるのです。「私はダニエルズの指示に従い、それに忠実にプレーしただけである。この優勝の栄誉は彼と分ち合うべきものです。」世界中のゴルフファンが球聖ボビー・ジョーンズに魅了されていた同じ時代に、プロとキャディーとの心温まるこんな話もこのSandwichのリンクスにはあるのです。

 

 

 

 

 

 

*Gene Sarzen 全英での勇姿

 

 

 

 

 

付録、ゴルフ雑学事典

 

英国における都市名の語源

Sandwichについて

Wich, Wick, Gateが語尾につく町はバイキングが移住した

歴史が刻まれているところが多い。

又、Cester, Chester, Casterと語尾につく町は、ローマ

軍が陣地(Castra)をもった歴史を持っている。

語源はアングロサクソンのSandwyk, これがバイキングの時代に

Sandwickになり現在のSandwichになる。

 

Sandwich10世紀には交易港として栄える。

14世紀エドワード三世の時代にフランスとのクレーシーの戦いでフィリップ6世を捕虜、その後、15世紀にはフランスが侵略し市民を殺害した。

1558年にはエリザベス女王が来訪。これにより街は繁栄を取り戻す。

その後、オランダからの避難民を迎え入れ、酪農や園芸の文化が伝わる。

この地方の堤防建設はそのオランダ人によるもの。

清教徒革命で議会派の軍を指揮し功績を称えられ伯爵の称号を得たエドワード・モンターギュ将軍がカード好きで妻が中座しなくてもいいよう出した軽食が今のサンドウィッチの始まりだったとのエピソードもある。

しかしバイキングがすでにパンに保存肉や魚を乗せて食べる現在のスモーガスボード(オープンサンド)をナイフで二つに折って食べたのがサンドウィッチの始まりであるという説もある。

大戦最中、ここも軍の演習場に指定されたが、下院議員ブラバズン卿(後のR&Aのキャプテン)が議会で陸軍に対し「名コースに砲弾を打ちこむのは、レンブラントの絵画に泥をかけるようなもの」と言い、中止にさせた。

 

 

Text by Masa Nishijima

Photo by Masa Nishijima, Royal St. George’s GC,

        The Society of Golf Historical