ゴルフ界のアトランティスを蘇らせる。Part 1

 

 昔から欧米にはゴルフ史家たちによる研究グループが幾つも存在し、そして彼らは互いに意見や論説を唱えあい、今日に至るまでゴルフ文化を継承してきました。20世紀半ば位まで彼らの研究課題の多くはゴルフ発祥にまつわる説やプレーヤーとクラブ史、そして用具の進化などでありました。それがゴルフコース数や人口が急激に伸びた1980年辺りから彼らの研究課題はトーナメント文明からその舞台となったゴルフコース史、及びそのコース設計家たちについて多く語られるようになります。

米国では1930年の大恐慌から戦中に至るまで実は900ものゴルフコースがロスト・リンクス、それらは軍の基地、演習場、住宅地、フリーウェイ等に化していきました。

以下の表の赤線部のコース数をご覧下さい。1934年は第一回目のマスターズが開催された年ですが、大恐慌が収まらない不況下の中、オーガスタナショナルGCは造られ、そして翌年には第一回大会が開催されたのです。

 

米国では1934年から終戦に至る1946年までをゴルフコース界の暗黒時代と呼び、ゴルフコースが誕生するどころか910コースものゴルフ場が消えたことがこの表からもお分かりになるでしょう。

1960年には6,385コースとなりましたが、戦前の最盛期の頃に戻るまで約15年近くもの歳月が必要でした。

2008年に起こったリーマンショックでも1,000近くものコースが破産申請へと追い込まれていきましたが、その半数は新オーナー、又はメンバーの有志たちによって再生し受け継がれました。パプリックコースの中には9又は12ホールコースに縮小され、再生の道に漕ぎつけたコースもありました。

 

 

幻のリドークラブとはどのようなゴルフコースだったか。

*失われた名コースLido Club(18ホールレイアウト)

 

そんな中、失われたかつて栄光の日々を誇ったゴルフコースを蘇らせようというCG技術を駆使したバーチャル映像のユニーク案がゴルフチャンネルや雑誌などで企画されました。

その一番手の題材となったコースがゴルフ界のアトランティスと呼ばれた幻の名コース、ニューヨークロングアイランド沖合のロングビーチ島にあったリドークラブ(Lido Club)でした。

*写真 右 C.B. Macdonald  左 Seth Raynor

 

1914年に米国ゴルフ界の父C.B.Macdonald(USGA初代会長)と彼の造成パートナーだったSeth Raynorによって設計されたこのコースは、Macdonaldがクラシックコースの設計定義として伝えたスコットランドギフトからのテンプレートホール(レダン、バンチボウル、ケープ、ロング、プラトー、アルプス、イーデン、ショートなど)の数々に加え、当時彼がカントリーライフ誌で募集した戦略的PAR4ホールの設計で見事にプライズを獲得したAlister MackenzieTom Simpsonの多角的ルート(Alternate Route, Dual Fairway)を活用した戦略的ホール(#18, #15)、更にこれに挑戦したかのような彼自身のオリジナル2 waysの戦略的Channelホール(上、#4番レイアウト図右端)がリドーの18ホールの構成に含まれました。

チャールズ・ダーウィンの孫でゴルフ史家でもあったバーナード・ダーウィンはリドーを世界ナンバー1の戦略的コースと絶讃されました。また若かりし頃、リドーを訪問し、1948年にマスターズチャンピオンとなったClaude Harmon(*ButchHarmonの父)もリドーを後世に伝えた一人でした。

 * Bernard Darwin (7 September 1876 – 18 October 1961) ゴルフに関する13の著。

*18番のモデルとなったAlister Mackenzieの多角的戦略ルートのパー4(#18番に活用)

*Tom Simpsonの戦略的2 ways(Dual Fairways) hole (#15に活用)

 

  リドークラブの開発は、Piping Rock Club(1911年設立 設計C.B.Macdonald)の創設者のRoger Winsthropが発起人となり、ニューヨークの富裕なる投資家たちのコンソーシアムによって考案されました。

彼らの多くはC.B.Macdonaldがコース設計を手掛けたクラブのファウンダーメンバーたちであり、20世紀初頭の億万長者達でした。その主なメンバーにはPaul Kravath , Thomas Cuyler, Cornelius Vanderbilt, Robert Goelet, Charles Sabin, Henry Bull, W. Forbes Morgan, James Stillman, Harry Paine Whitney and Otto Kahnなど錚々たるメンバーが参加していました。

リーダーのWinsthropは現場での仕事をパートナーのSeth Raynorに任せ、自身はセミリタイアしたかのようにホームコースのナショナルゴルフリンクスでゴルファー人生を送っていたMacdonaldにこの計画を持ちかけます。

Macdonaldは自身が現地を視察する前にRaynorに行かせ、彼の報告次第で設計を受けるかを判断すると伝えました。そしてRaynorが彼らに連れて行かれたのがロングアイランドの離島ロングビーチ島のリドービーチでした。そこは白い砂のコーストラインと内陸のレイノルズ海峡に挟まれた200エーカーの干拓地、つまり湿地帯だったのです。彼らはRaynorに言い聞かせます。「我々はこの開発に現在だけでも80万ドルの予算を用意している。この土地を埋め立てれば設計には何の弊害もなく君たちの理想のコースが誕生するはずだ。」

当時ゴルフ場建設と云えば、現在のように重機も使われず、自然の地形のあるがままに18ホールをルーティングし、レイアウトされるのが当たり前の時代でした。1コースにおける造成コストはフラットに近い林間地の5万ドルから岩盤層が強い丘陵地の20万ドルが通常でした。元々がコース設計ではなく土木工学が専門であったRaynorは、土地を眺めながら彼らの話に深く頷きそれを師であるMacdonaldに伝えます。彼が重い腰を上げ「よし現場に行こう」と述べた時、彼らはMacdonaldとの契約は成立したと確信しました。

WinsthropにはMacdonaldを納得させるだけの絶対的自信がありました。それはMacdonaldがPiping Rock, Sleepy Hollow, The Creekなどの造成で、土地の開発規制やらファンダーメンバー達からの要望などで100%満足できる作品には至らなかった事を知っていたからです。

当時のMacdonaldは自身の設計料を請求するようなケチな事はしない富裕層の一人でした。従って仕事には強い拘りと信念を持っていました。

設計造成の報酬を受けるのはあくまでRaynorたち設計・造成のパートナー達で、心揺さぶられるサムシングがなければ自身は受けることはしない人でした。

そしてスコットランド出身でイングランドのRoyal Mid Surry GCのキーパーでもあった芝草研究の第一人者Peter Leesもその現場を訪れます。彼は現場を見て唖然とします。「ごめんなさい、コースの用地はどこですか?」

「君が今眺めているところだ。ここを埋め立て、それにマッチした芝種を君に考えて頂きたい。」

「ここに貴方たちはどのようなゴルフコースを造るおつもりなのか?!」

最初はこの米国人たちの開発への野望に荷物をまとめ故郷に帰ろうかと考えたが、Macdonaldに押し切られ、そのままグリーンキーパーとしての契約書にサインをします。

*Lidoの初代グリーンキーパーとなったPeter Lees

 

そして1914年にクラブ設立が承認され、リドーのコース造成は一気にスタートします。

土木技師であったSeth Raynor指導の下、レイノルズ海峡の海底から砂を吸い出す浚渫作業を行う作業がスタートします。

それは国家事業であったパナマ運河建設と同じ方法でした。そして推定200万立方ヤードの砂をこの土地に埋め立てられていきます。

*レイノルズ海峡の海底から砂を吸い出す浚渫作業。それは砂15%に対しくみ上げられる水が85%でその繰り返しの作業で推定200万立方ヤードの砂をこの土地に埋め立てた。

 

Macdonaldの設計図面に合わせ、吸い上げた土砂を貨車に乗せて運ぶレール作業も生まれました。それはフェアウェイやグリーンに使う良質な表土を搬入する際にも役立ちました。

人力とロバなどの家畜動物、この埋め立てのプロジェクトだけでも300人を遥かに超える労働者達が総動員されたと言われています。

常に水を吸い上げ海峡に流すための調整池としてラグーンが設けられ、Macdonaldは自身の最高傑作と自負するChannel Holeを設計します。

* Channel Holeのスケッチ図。

 

このパー5のホールで、彼はティショットに安全な3ショットルートとタフだが2オン可能な2ショットルートのどちらかをプレーヤーに選択させるリスクと報酬の理論を用います。タフなルートは高さ10m30ヤード、長さ100ヤードの狭い丘の上のフェアウェイを狙っていきます。この盛土して造られた丘がコースで最も高い箇所となり、18ホール全体を望める場所でもありました。

Macdonaldのこのアイデアは彼がイングランドで観たLittlestone GC16番にありました。安全なルートを狙うとグリーンへの2打目は砂丘がグリーン手前にありブラインドのショットが要求されますが、もう一つの狭いルートを狙えば、砂丘の壁はなくグリーンを正確に狙うことが出来ます。Macdonaldはこれをティショットのランデイングゾーンに高低差を付け、パー5のスケールで演出しました。このMacdonaldが推奨した2 waysの戦略的アイデアを設計に用いた人物が日本にも二人いました。一人は大谷光明で、彼は東京GC15PAR53ショットルートとタフな2ショットルートを巨大なバンカーで左右に分け描きました。もう一人は赤星四郎です。彼は箱根CC17PAR4MacdonaldがインスパイアされたLittlestone GC2 waysの理論を用いました。赤星は戦前に旧藤沢CCAlisonの力を借りて設計した際、彼からこの2 waysの戦略性を学びました。

*Littlestone GC  #16  現在は改造されそのルーティングは変更されている。

 

Macdonaldはこの#4Channel Holeの前の#3番に、St.Andrews Old Course#11(High Hole In=Eden Hole)をインスパイアした彼のテンプレートホールの一つ、Eden Holeを配置します。Old Courseではグリーン後方にイーデン(*エデン)河が流れますが、ここではレイノルズ海峡になります。しかしホールレイアウトの条件は非常に似通ったPAR3になります。

 

5番はナショナルゴルフリンクスでも紹介されたショートPAR4Cape Holeです。風によってはドライバブル(1オン)も可能なリスクと報酬のルートもありますが距離が足りなければ厳しい砂地からのアプローチが強いられます。このMacdonaldCape理論は後に、1オンは不可能だがリスクを克服したティショットには三方をハザードで囲まれるグリーンに対し、最大のアドバンテージが与えられるアプローチルートを演出する設計理論へと進化していきます。

しかし並行してレイアウトされる13番のKnoll Holeの配置に注意されて下さい。Knoll HoleとはDrive & Pitchのホールでグリーン面がアプローチエリアよりも10フィート以上高く、パッティングラインは後方から蛇行して流れる受け状のグリーンで、Pitch Shotの技術を競うホールです。

 

6番ホールはMacdonaldの設計ではなく、パートナーのRaynorの設計による戦略的ドッグレッグホールで、Macdonaldもこのホールを彼のBest Holeと称賛しました。

*Seth Raynor設計の6番、戦略的ドッグレッグホールは後のクライアントからも同じものを要求された。

 

リドーは当時としては珍しいアウト、インの2ループのレイアウトでした。しかも1番と10番の配置からも分かるように2つのループが同じ場所から同じ方向に流れ、アウトは用地の外周、インは内周をそれぞれ蛇行しながら流れるルーティングでした。その理由は200エーカーの用地においてコースに活用できる用地が115エーカーしかなかったことも理由の一つでしょう。しかし開設当時のドライバーの平均飛距離、打球のゾーンはこの範囲の中である程度は収まるものでした。又、今よりもゴルフ人口は遥かに少なく、ましてプライベートクラブとなれば限られたセレブたちのしかいませんでした。

リドーのフェアウェイの幅は最大で50ヤードは当たり前でした。しかし今の用具と平均レベルの技術を照らし合わせれば、ホール間に樹木もない事からゴルフ場内から危険球を知らせる声はあちらこちらで聴かれた事でしょう。ちなみにMacdonaldLido以前の作品の用地の広さは、例えばPiping Rock 170エーカー、The Creek 145エーカーになります。

この真っ平らな埋立地に突起するように盛土された箇所は、他に8OceanBiarritz green, 10Alpsのフェアウェイを阻む起伏の丘、13KnollDrive and Pitch holeの砲台グリーン、16, 17番も同じようにElevationのあるプラトーグリーンでした。

*海岸線に沿った最もタフなパー3、Ocean Hole. Biarritz Greenの後部は3メートルを超える高さにあり、後方の9番グリーン右にあったクラブハウスの一階部分はティからは見えませんでした。

 

12番のPunchbowlはラグーンに沿ってフェアウェイを対角線(Diagonal)に捉える戦略的ホールで、その日の風によって攻略ルートは大きく変わります。スクウェアーな形状のグリーンの左右後方を土手で囲んだ独特な造形美はMacdonaldPunchbowl Greenとして後世に伝えられていきます。

*12番Punchbowl Hole

 

埋め立てから始まり、造成、芝の育成期間、コースが100%完成に至ったのは1918年春のことでした。工期に何と通常の倍の4年の歳月を必要としました。

まだコース造成にショベルカーなど重機が使用されていなかった20世紀初頭に彼らは湿地帯から100%アーティフィシャル(人工的)なコースを造ろうと考えたのです。

水面下に等しい干潟地帯に土砂を20フィートの高さで埋め立てられただけに、115エーカーの用地はフルにレイアウトに活用できたのです。

リドーの完成から60年後、MacdonaldRaynorの設計理論を継承してきたPete Dyeは特にリドーの造成への信念と意欲に感銘を受けてきました。そして彼はフロリダの湿地帯で同じ体験をします。TPC Sawgrassはリドーへの強い憧れから1981年に誕生します。

*TPC Sawgrass Players Stadium Course #17  Photo by Larry Lambrecht.

 

リドーのコースが完成した1918年には9番グリーンの右手に豪華なクラブハウスが完成します。この時点で既にメンバー数は100名に達していました。

リドーのゴルフコースを除いた残りの85エーカーは、クラブハウスを兼ねた巨大な400室を誇る5階建てのホテル(1928年完成)、ドライビングレンジ、テニスコース、乗馬クラブ、釣り、そして当時としては珍しいオーシャンフロントを売りにしたハイソサイティな住宅地の開発がありました。1棟が1エーカーの敷地で区割りされていたというから相当な高級住宅地計画だったのでしょう。

リドーの開発の最大の目的はこの住宅開発にあったのでは?と唱えるゴルフ史家たちもいます。つまり米国でオーシャンフロントの最高級住宅地にゴルフコースを隣接させた最初のプロジェクトであったと。200万立方ヤードの土砂を海底から吸上げ埋め立てたリドーのプロジェクトは当時のニューヨークの投資家たちの野心の現れでもあったのでしょうか。19285階建てのホテル兼クラブハウスが完成するとグランドオープンを待たずして、ニューヨークだけでなく東部はもちろんシカゴの富裕層までもが注目し、住宅購入へと走ります。マンハッタンからも近距離のこのリドービーチのプライベートリゾートにメンバーシップロールは1500名に達していました。

米国のゴルフ場開発で湿地帯に大量の土砂を搬入しゴルフコースに変えたリドーの成功は後に不毛の湿地帯を持つカロライナやフロリダにも影響を与え、Seth Raynorはそこでも多くの作品を手掛けることとなります。そして彼の名声はハワイにも伝わり、ソニーオープンでもお馴染みのワイアラエCCの設計を受ける事となります。ハワイを本土からの富裕層達の楽園にする為に誰もが認める著名設計家の名コースが必要でした。しかし皮肉なことにそのプロジェクトは彼にとって莫大な資金が投じられたリドーと同じく、美しいコーストラインから内陸への細い運河に繋がる湿地帯の条件にあった用地だったのです。彼はハワイから帰国後、フロリダの自宅に戻り数ヶ月後に52歳の若さで急死、ワイアラエCCが彼の最後の作品になったのです。

*完成時のWaialae CC

 

開設して間もないリドーの話に戻ります。Roger Winsthropを中心とした投資家たちの考案は大成功かのように見えましたが、20年代には海門から洪水が発生し、多くの家屋が浸水の被害にあったことが記録されています。

そして記憶にマークをしなければならない事はリドーの造成がスタートした1914年に第一次大戦が勃発し、米国も17年に連合軍に参戦します。そして翌年リドーの完成と共に終戦も迎える事になります。

しかしホテルが完成を迎えた1928年、もう既に大恐慌の兆しは起こり始めていました。

*かつてのクラブハウス兼ホテルは、現在コンドミニアムとなっています。

 

1933年にはドイツでアドルフ・ヒットラーが首相に任命され、ナチスドイツの侵略は欧州大陸を恐怖の底へと落とします。

大恐慌をむしろプラスに捉えた一部の米国の投資家たちの視点はゴルフから軍事産業へと移行していきます。そして幾つものゴルフコースが大恐慌の中に消えていく結果となるのです。リドーもその一つでした。最終的には不動産業者に引き継がれ、そして島全体を基地にする案を持っていた海軍に買収される事となります。1942年ニューヨークの投資家たちの栄華に溢れたリドークラブはその華麗なる歴史に幕を閉じるのです。

現在はかつてホテル&クラブハウスだった五階建てのコンドミニアムがその栄華を伝える中、ゴルフ史家たちはリドーをゴルフ界のアトランティスと語り継いでいきます。

 

* 左下にクラブハウス、ブルー枠の中にリドーのオリジナルコースはレイアウトされていました。右上にあるリドーゴルフコースは1949年にR.T.Jones Srによって設計された市営コースです。

 

PS,

リドーを蘇らすロマンある米国ゴルフ界のテーマ、今回のPart1はそのリドーを知って頂くための長いプロローグになりました。

次回のPart 2は、一人のディベロッパーが夢に見たリドー再現へのストーリーに入っていきます。ここからが本題となります。お楽しみください。

 

Text by Masa Nishijima

Photo & 資料 by GOLF Illustrated, The Evangelist of Golf by George Bahto 

                Society of Golf Historians, Larry Lambrecht,