A Special Celebration of The Greatest “Jack at 80”

1月21日に80歳のセレブレーションを迎えた帝王ジャック・ニクラウス。GOLF Magazineでは32ページに及ぶその特集号を掲載致しました。

その見出しのタイトルも「A Special Celebration of The Greatest “Jack at 80”」と、その内容の豪華さを伝えるものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

特集の始まりはGOLF HIS WAYと題して、彼の偉大なる80の痕跡を紹介しています。主な事項をご紹介していきましょう。

1950年 春 ジャックが10歳の頃、元フットボール選手であった父チャーリーに連れられてオハイオの名門サイオートカントリークラブにて初めてラウンドをしました。 彼はなんと9ホールで51オーバーのスコアを出し、その鬱憤を晴らすかのように当時のヘッドプロだったジャック・グロートの指導を受け成長していきます。

1953年 6月9日

13歳を迎えたジャックはゴルファーとして一気に開花します。オハイオ州ジュニア選手権で初優勝を果たし、以降55年まで3連覇を果たします。

同年の夏、初めて70をブレークし、オフィシャルHCがPlus -3を記録します。

同年 7月29、30日

自身初のナショナルトーナメント全米ジュニア選手権に出場し、17才以下での優勝を果たします。

しかしその後のトーナメントでスタート時間に遅れたジャックは、当時USGAのExecutive Directorだったジョー・ディからゴルフ人生初のペナルを受けます。

後にジャックは著 「GOLF MY WAY」 の中でも「当時の自分にとって、コーチのジャック・グロートとジョー・ディは父以外の最も影響力ある存在だった」と述べています。

1954年 夏

サイオートジュニア選手権で154ヤードのPAR3で初のホールインワンを達成します。

1955年 9月12日

15才になったジャックは初めて全米アマに挑戦します。しかし1stラウンドで1- downで敗れてしまいます。

彼はその大会で初めて球聖ボビー・ジョーンズと対面します。ジャック少年はジョーンズから慰められたのかもしれません。

1956年 7月29日

16才、オハイオ州オープンで初めてプロに勝利します。

1957年 6月

17才で名門インバネスGCでの初の全米オープン出場も予選落ち。

 

 

 

 

 

 

1957年 9月

アマチュア界のスターとしてジャックはスポーツイラストレイテッド誌で注目をされます。

またその月に彼は愛妻バーバラ夫人と初めて巡り会います。一目惚れしたジャックは59年のクリスマスにプロポーズし、翌年夏に何と二十歳の若さで学生結婚をします。

そして1年後の61年9月23日には長男Jackieが誕生します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同年、カンサス州でのトランスミシシッピー大会の準決勝でピート・ダイを3-2で下し、決勝でも勝ったジャックは大会史上最年少のチャンピオンとなります。ピート・ダイとは後にモダンコース時代の巨匠と称されるコース設計家故 ピート・ダイ 氏 ( 1925-2020年 ) です。

 

 

 

 

 

 

 

 

* 当時のPete Dye氏とアマチュア19冠を手にした彼の愛妻Alice

1958年 6月

オクラホマ州の名門サザンヒルズCCでの全米オープン、見事予選通過を果たし、41位タイに。

1959年3月、ジャックは初めてマスターズ大会に招待をされ、マグノリアレーンを通り、クラブハウスに向かいます。

大会での結果は76,74のトータル150で1打及ばず予選落ちとなりましたが、滞在中、毎晩ステーキ2枚を平らげていたそうです。

そしてアマチュアの招待選手が泊まれる屋根裏部屋のCrow’s Nestではジャックに取って、ピート・ダイの時と同様に運命的な出会いが生まれます。

後にショートゲームの匠とも言われたフィル・ロジャースと相部屋になった事です。フィルが62年プロとして初めて勝利したLAオープンは、同時にジャックのプロデビュートーナメントでした。50位に入り、その時に手にした$33.33ドルの賞金の小切手は今も大事に保管されています。

フィル・ロジャースはPGAツアーで5勝を挙げますが、シニアツアーを僅かに経験した後、ティーチングプロに転身します。

そして80年、スランプに入っていたジャックにショートゲームの技とスウィングアドバイスをし、ジャックはその年、バルタスロールの全米オープンで青木功との4日間の死闘を制し、またオークヒルでの全米プロにも勝利し復活を遂げます。

6年後、46才でマスターズを制した時も、フィルからのアドバイスは大きかったと述べています。もしフィル・ロジャースの存在がなければ、ジャックのメジャー通算勝利は今よりも3つ少ない、現在のタイガーと同じ15勝になっていたかも知れません。

フィル・ロジャースは93年にプロを引退、2018年長年患っていた白血病で亡くなりました。ジャックとはゴルフだけでなく、最高の釣り仲間として、家族ぐるみの付き合いをされていました。

 

 

 

 

 

* プロに転身してニクラウスが最初の手にした賞金 $33.33の小切手

 

 

 

 

 

 

 

 

 

* 1964年 St.Andrewsで開催されたThe OpenでのPhill Rodgersとの2ショット

1959年はジャックがUS ウォーカーカップのチームに選出された年でもあります。

その後彼は17度もナショナルチームのキャプテンを務めます。その中には8度のライダーカップ、4度のプレジデンツカップが含まれます。

同年5月、初めてスコットランドに訪問し、名門North Berwickにて、Ben Sayersのヒッコリーシャフトのパターを購入します。

そのパターは二度の全米アマチャンピオンを彼に齎します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1961年 11月8日

ジャックがプロ転向を発表します。

バーバラ夫人は「夫はボビー・ジョーンズを誰よりも理想としていました。大学に通いながら保険業も営み、アマチュアとして生き続ける選択もあったのでしょうが、私たちは若くして結婚をしました。それは彼をゴルファーとしてベストであるならば、それに相応しいベストな場所を選ぶべきとの結論にさせたのかもしれません。」と語っています。

ジャックの素晴らしい点は、プロ転向後もオハイオ州立大に通い続け、72年に名誉博士号を授与し卒業していることです。

彼はゴルフ仲間たちと普段着でのパーティをする時、よくOSUのロゴ入りのカレッジTシャツを着て登場します。

1962 年6月17日

プロも脅かした天才トップアマからいざプロに転向はしたものの勝利への道は険しいものでした。

初勝利を手にしたのはプロになって17戦目、それが何と名門オークモントで開催された全米オープンの大舞台で、しかも18ホールプレーオフの末に勝ったその相手がキングことアーノルド・パーマーでした。

メジャー通算18勝のジャックらしいPGAツアー初勝利の瞬間でした。ジャックはこの大会で優勝賞金$15,000ドルにプレーオフボーナス$2,500ドルの計$17,500ドルを獲得します。

この頃のアーノルド・パーマーは年間7~8勝をするなど絶頂期にあり、特に春先は好調で、3週連続Vを二度も記録するなどPGAツアーの記録を塗り替えていました。

パーマーは58年にマスターズで優勝すると、クラブプロ兼グリーンキーパーを父に持つミドルインカムの家庭で育ったその生い立ちからのサクセスストーリーは、彼を一気にスターダムにのし上げました。

パーマー観たさに集まるその観衆の集団は後にArnie’s Army ( アニーズアーミー ) と呼ばれ、TVが普及した時代にゴルフ中継を確立させたスーパースターでした。

ましてオークモントのあるペンシルベニア州出身のパーマーですから、プレーオフでは新鋭のジャック・ニクラウスは明らかにヒールな扱いを受けたことでしょう。

もちろんこの年もパーマーはマネーランキングではトップで、翌63年には$128,230ドルを稼ぎ、プロスポーツ界ではMLBのミッキー・マントル、ウィリー・メイズを抜いて堂々のトップに君臨します。

ジャックもプロ2年目にして早くもゴルフ界二人目の$10万ドルプレーヤーになります。

 

 

 

 

 

 

 

そして南アの Black Knight ことゲーリー・プレーヤーと共に、ゴルフ界はパーマー、ニコラウス、プレーヤーのビッグ3時代に突入します。

 

 

 

 

 

 

 

 

次号へ続く

Text by Masa Nishijima

Photo by GOLF.com, SI , Nicklaus Designs, Jack Nicklaus Museum of OSU