ペブルビーチ、最も人気の高い全米オープンコース。

 

2019年度全米オープンが始まります。本年度は西海岸の名コース、ペブルビーチゴルフリンクスです。元来全米オープンは北米を代表する名門プライベートクラブで開催されていました。しかしUSGAはパブリックリゾートのペブルビーチを開催コースに選択し、それは1972年に実現しました。パブリックと言ってもペブルビーチは1919年ネビル/グラントのアマチュア名手二人によって基本設計が成されたセレブ族のためのリゾートコースで、後に同じ17マイルドライブにあるサイプレスポイントを設計したアリスター・マッケンジー、ロバート・ハンター、チャンドラー・イーガン等もコース改善に参加しました。

※(上) マッケンジーとハンターが最も好んだ6番ホール。(下) ジャック・ニクラウスが絶賛する8番ホールはマッケンジーがケープホールに改良した作品である。更に奥の13番も同様にマッケンジーがアドバイスをした。

 

ペブルビーチの生い立ち

セレブ達を魅了する17マイルドライブは、1880年、鉄道男爵等のBig Four (BNSF鉄道、ユニオンパシフィックUP)、ノーフォークサザン(NS)CSXトランスポーテーション)の共同運営会社PIC(Pacific Improvement Company)によって観光及びホテルデルモンテ、住宅地開発がスタートします。1909年には初代デルモンテロッジが完成します。それは山小屋風の建物で、コッテージ、レストラン、ホールも備えていました。そして1910年に一人の男がPICに雇わられます。SFBモース、1916年彼はここにゴルフコース建設を提案します。工事が進む中、ロッジは全焼の被害にあってしまいますが、1919年にコースと共に新しいロッジも完成します。ペブルビーチゴルフリンクスの歴史のスタートです。

それとほぼ同時に、オーナー権も開発を指揮したモースが中心となって立ち上げたデルモンテプロパティカンパニーによって買収されます。尚、ロッジの名称がデルモンテからロッジ・アット・ペブルビーチに改名されたのは、1977年にペブルビーチコーポレーションとして再設立されてからの事です。

1979年、20世紀フォックスがペブルビーチを買収、その2年後にフォックスは石油王マーヴィン・デービスと起業家マーク・リッチに買収された為、ペブルビーチも彼の配下の一つとなります。しかしここから彼らユダヤの資本家たちによってペブルビーチは暗礁の時代を迎えます。85年メディア王ルパート・マードックがフォックスを買収、それを機にデービスは90年、ついに米国ゴルフ界の至宝コースであるペブルビーチをバブル経済で騒ぎ立つ日本企業に売却します。そのトップにいた熊取谷稔はマネーロンダリングでFBIの調査を受け失脚しますが、太平洋クラブと住友銀行がローンサイプレスカンパニーを設立して引き継ぎます。

この時期、ペブルビーチに行けば日本人しかいないとまで噂され、日本人によるゴルフ場買収劇は非難の的となりました。

※マーヴィン・デービスは至宝ペブルビーチを商品の一つとしか考えていなかったのか。

しかし日本のバブル崩壊からペブルビーチは不況に陥り、再び米国人のもとに返ってきます。1999年、クリント・イーストウッド、アーノルド・パーマー、ピーター・ユベロス等の投資家グループによってローンサイプレスから買収され、それを機にペブルビーチリゾートは周辺の自然環境を守りながら施設の大規模な再開発を行い、今日に至っています。

 

1972年初めて全米オープンを迎える。

 西海岸を代表するシーサイドコース、ペブルビーチの最大の魅力は海岸線に吹く風とその壮大な眺望にあると言われます。しかし専門的観点からみれば、ペブルビーチの魅力は400平米にも満たない小さなグリーンです。USゴルフダイジェスト誌がコースランキングの査定部門で、ショットバリュー(ショットの価値を示す高さ)の分野は、ペブルビーチの小さなグリーンを捉えるショットの価値をベースにしたものでした。ニクラウスはトッププロとしてペブルビーチのグリーンの価値を賞賛し、コース設計家としても多角的アプローチアングルを持った小さなグリーンほどショットバリューを高めるものはないという信念を持ち続けました。

それをまず悟ったのが1972年の全米オープンでした。大会三日目までの天候は風は吹き、しかもグリーン周りの3種の芝が混合したラフは深く、外せばパーセーブは不可能とまで言われ、まさにスモールグリーンの価値を示すものでした。選手たちのスコアは伸びない中、初日から首位に立ったニクラウスでしたが、スコアは71,73,72のイーブンパーの首位で最終日を迎えました。1打差に前年メリオンの大会で18ホールプレーオフの末にニクラウスを下したリー・トレビノとオーストラリアのプルース・クラムプトン、2打差にアーノルド・パーマーと続く中、ファイナルランドは濃霧と予想を絶する強風に選手たちは苦しめられました。最終日の平均スコア78.8は全米オープンとしては過去最低の数字を記録しました。その中、ニクラウスは2オーバーのトータル290のスコアで全米オープン3度目の優勝、32歳の若さでメジャー通算11度目のタイトルを手にしたのです。1998年、ニクラウスはペブルビーチのやや打ち上げのショートパー35番ホールを崖沿いにレイアウトしたホールに改造します。

※ニクラウスが設計した新しい5番PAR3

その後、82年大会ではトム・ワトソンが今も語り草として継がれる劇的な17番のチップインバーディを決め、ニクラウスの追撃を振り切り、通算−6アンダーで優勝、新帝王は博学的なゴルフ文化人とも言われました。

※ニクラウスの追撃を振り切った奇跡のチップインバーディにメディアは新帝王の誕生と称えた。 

92年はトム・カイトが優勝、そして2000年のミレニアム大会では前年パインハーストの大会で優勝し、飛行機事故で亡くなられたペイン・スティアートを惜しみ、献花の代わりに参加選手たちが海に向かってショットする儀式から始まりました。

そしてこの年、還暦を迎えたニクラウス本人からは公式なコメントは出なかったものの、メディアはニクラウスが最後の全米オープンの舞台にペブルビーチを選んだと察し、練習日からニクラウスの姿を追い続けます。そして2日目の18番ホール、予選通過が不可能となったニクラウスは、何故か突然ティーインググランドの木柵の上に腰掛け、18番グリーンの方向を眺めます。そのシーンを撮影しようと同行してきた大勢のカメラマンたちが一斉にシャッターを切り始めます。ニクラウスの目がどこか潤んでいるようにも見え、ギャラリーはニクラウスに感謝の意を拍手にして送ります。

そしてこのペブルビーチでの大会はゴルフ界に新旧交代の時を告げる舞台ともなります。97年マスターズに優勝、99年には全米プロを制し、飛ぶ鳥落とす勢いで勝ち続けるタイガー・ウッズが、他の選手を全く寄せ付けない異次元のゴルフを披露します。−12アンダーは2位の+3オーバーのエルス、ヒメネスに15打差をつける圧倒的勝利でした。

2010年の大会では北アイルランド出身のグレーム・マクドゥエルが、エルス、ミケルソン、タイガーを振り切り、イーブンパーで優勝。

そして今年、全米オープンの舞台は再びペブルビーチに戻ってきました。

7番から14番までの8ホールで、どれだけスコアを纏められるかがキーになると言われるペブルビーチ、ブルックス・ケプカの3連覇はあるのか? ダスティン・ジョンソンが全米プロのリベンジをするのか、マスターズを制したタイガーが完全復活を果たすのか。ペブルビーチはトッププレーヤーたちの技術を称賛する舞台であっても、ミスは絶対に許さないコースです。

今年ペブルビーチは創設100年を迎えました。

※7番 世界のベストパー3ホールの一つ。

※8番 ニクラウスも絶賛するパー4、セカンドケープへのショットはゴルファーにとって最大の醍醐味だと述べる。

※ 9番 526ヤードのPar4は地形のスロープが左から右へ流れ、トーナメントでは最もタフなホール。

 

Text by Masa Nishijima

Photo credit by Larry Lambrecht, GOLF.com, Pebble Beach Company.