コネックテッドフェアウェイとバンカー。

クラシックコース時代によく見られたもので、並列するホールのフェアウェイが、ひとつの大きなプレイングゾーンになっているものがあります。通称コネクテッドフェアウェイ、又はダブルフェアウェイとも呼びます。最近のモダンクラシックコースでもその手法が復活し、特にひとつのホールが打ちおろしホールになる場合、二つのホールのランドスケープに見る自然のスケール感は一段と高まります。
但し、これらのホールでも絶対にあってはならないのが互いのホールのIP(ティショットのランディングエリア)が、そのクロスする場所であってはならない事、これは危険であり、IP前後でなくてはなりません。またこのコネクティングルートのあり方で、ひとつのホールがドッグレッグポイントになるコースもありますが、これもドッグレッグポイントからその先のプレイングルートがはっきり確認できなければ、プレーヤーは、並列するホールに向かって間違った方向に打ってしまうケースも生れます。特に二打目が打ち上げになる場合などがその例です。これらも含め、ミスショットに対しての救済場所でもあるクロスエリアは、けしてIPであってはならないという大きな理由です。
これらのミスを防ぐ意味でも、クロスする場所に、ターゲット(目標)となる二つのホールに共有する巨大なウェストエリアやバンカー等のハザードを設置する事もアイデアでしょう。
クラシックコース時代、フェアウェイのクロッシングポイントを設けた大きな理由のいくつかに、リンクスの自然のレイアウトをイメージした例と、ホールの周辺を自然の牧草などのラフエリアとして残していた為、当時手押しの芝刈り機で行っていたメインテナンスのルート取りの為とも言われています。この時代のクロスエリアには当時の飛距離からIPが重なっただろうと思われる作品も多く見られますが、その主な理由は、現代ほど多くのゴルフ人口が無かった事、また限られた人しかプレーできないメンバーコースだったからでしょう。日米ともモダンコース時代の作品には、樹木によってホールが完全にセパレートされているケースが多く、巨大な池を共有する程度のレベルで、それらは美観性はあっても、けしてコースのスケール感には結びつくものではありません。コースを改造される際、このようなレイアウトの構図を造り出す事もアイデアのひとつでしょう。
尚、フェアウェイの共有される部分に配置されるバンカー群は、コネックテッドバンカーと呼びます。日本では1931年に、コース設計家チャールズ・アリソンが東京GC旧朝霞コース(1932-1938)の2番と5番の間に巨大なコネクテッドバンカー群を設け、フラットな用地にスケール感を出しました。現場でアリソンの指導を受けていた赤星兄弟は、旧藤沢CC(1932-1943)の設計においても、川奈、広野に向かう途中に、アリソンに立ち寄ってもらい、7&8番と10&12&18番の間にコネックテッドバンカーのアイデアを提供されています。
旧藤沢CCの設計は赤星四郎になっておりますが、英米の資料からは、18ホールのレイアウト及びバンカリングのアイデアはアリソンが大幅に変更したとして、設計家はC.H.Alisonの名が記されています。

図 コネックテッドフェアウェイの一例  上のホールが3ショットのPAR5, 下のホールが2ショットのPAR4

図 コネックテッドフェアウェイの一例
上のホールが3ショットのPAR5, 下のホールが2ショットのPAR4

*写真と図 東京ゴルフクラブ旧朝霞コース(1932年)  2番ホールの左にある巨大なバンカー群は、折り返す5番ホールのバンカーとしても  共有された。

*写真と図 東京ゴルフクラブ旧朝霞コース(1932年)
2番ホールの左にある巨大なバンカー群は、折り返す5番ホールのバンカーとしても
共有された。


*写真と図 東京ゴルフクラブ旧朝霞コース(1932年)  2番ホールの左にある巨大なバンカー群は、折り返す5番ホールのバンカーとしても  共有された。

*写真と図 東京ゴルフクラブ旧朝霞コース(1932年)
2番ホールの左にある巨大なバンカー群は、折り返す5番ホールのバンカーとしても
共有された。

*旧藤沢CC のコネクテッドバンカー 7,8番の間、10,18,12番の間をご覧下さい

*旧藤沢CC のコネクテッドバンカー 7,8番の間、10,18,12番の間をご覧下さい

アリソンが関わった東京GC旧朝霞コース、そして旧藤沢CCも、大戦に向かい、軍の基地として活用され、現存しないロストリンクス(Lost Links)となってしまいました。当時、日本の大半のゴルフコースは大戦の犠牲となり、閉鎖及び崩壊されたのです。

旧藤沢CCクラブハウス(現. グリーンハウス)

旧藤沢CCクラブハウス(現. グリーンハウス)

1938年当時のクラブハウス

1938年当時のクラブハウス

*旧藤沢CC 18番 1938年日本オープンにて

*旧藤沢CC 18番 1938年日本オープンにて

ゴルフへのロマン ~ゴルフを愛した名士たちの永遠のひとかけら~

1930年代、日本も米国同様に後世に残る名門コースが誕生した黄金期でした。東京GC旧朝霞コース、広野GCと同じ32年に開設された旧藤沢CCは、後に日本プロ、日本オープンが開催されるなど、関東の8大コースと称されたのです。
大戦の最中、多くのゴルフ場は、軍に接収され姿を消す中、旧藤沢CCも43年に海軍の基地となります。戦後になり、多くのゴルフ場は復興される時を迎えますが、藤沢CCは滑走路や多くの宿舎が建てられたことから復元への道は閉ざされ、Lost Links(失われた名コース)の仲間入りとなりました。
しかしゴルフコースが再建されなかった事が幸いしてか、日本のゴルフ界を創った名士たちのゴルフへのロマンを漂わす「ひとかけら」は残された。
それは、名匠アントニン・レーモンド設計による南欧風のクラブハウスでした。
もし、ゴルフコースが復元されていたならば、このクラブハウスとて、他の名門同様に、今日まで改築されていた事でしょう。クラブハウスとしての役目を果たせなくなったこの建物は、屋根が緑色のスペイン瓦でできていることから、グリーンハウスと名称されています。過去には神奈川県立教育体育センターの合宿所として利用され、現在はセンター内の食堂となっている。時を経ても、外観は昔の優雅なたたずまいを見せていますが、館内に一歩足を踏み入れれば、雨漏りなどその破損状況は厳しいものがあります。長く神奈川県がその補修予算を組まない中、地元有志たちの努力で、このクラブハウスは保たれ、そして戦前の華麗なるその歴史は伝えられてきました。
そして現在、黒岩知事によって、グリーンハウス保存への価値は高まり、オリムピック開催に向けての合宿所の建設と絡め、グリーンハウスは会議室を設けたその司令塔として改修される事が決定したのです。五輪後、ゴルフをメインとした歴史資料館として活用される事でしょう。
現在も床にはレイモンド夫人がデザインされたティのモザイク画が残されている。

現在も床にはレイモンド夫人がデザインされたティとボールのモザイク画が残されている。

現在も床にはレイモンド夫人がデザインされたティとボールのモザイク画が残されている。

5番ティの東屋から4番ホールを望む

5番ティの東屋から4番ホールを望む

かつて少年キャディーだった方たちの記憶から、当時の淡い記憶を辿るかのように紙粘土でゴルフコースのジオラマも作られた。そして驚くのは、暖炉の前の壁に飾られたトーナメントの記念石碑に刻まれていた1941年12月7日(米国時間12月6日)の出来事、ここで米国大使杯が行われ、大使を招いての華麗なるパーティが夜遅くまで催されていた。しかしそれから僅か数時間後、米国時間7日未明に日本海軍は真珠湾を攻撃し、大戦の火蓋は開いたのです。その日参加された名士たちの何人が開戦を悟っていたのでしょうか。

図4

当時の写真の中に、開設記念日に撮られた株主メンバーたちの写真が残されていた。
誰もが喜びを隠せない笑顔に写って見える。
歴史の記憶は、捨てて良いものと捨てはならぬものがあります。
その中で、誰もが、きっと愛しい思い出の中で生きる時がある。
グリーンハウス、ゴルフを愛した男たちの永遠のひとかけらに….献杯。

図3

倶楽部開設日、発起人メンバーたちとゲストを駅から送迎した馬車

倶楽部開設日、発起人メンバーたちとゲストを駅から送迎した馬車

行き方 
小田急線善行駅下車 徒歩7分
神奈川県立教育体育センター敷地内、
現在改修工事中。

Text & Photo by MASA NISHIJIMA

資料提供 東京ゴルフ倶楽部資料室長 水野勝之
グリーンハウス保存委員会 宮田英夫