第150回 全英オープンが始まりました。

今大会はゴルフの聖地St Andrews Old courseでの開催です。以前にゴルフ誌の特集でもご紹介しましたが、何故ここがゴルフの聖地と称されてきたのか、それについてちょっとお話ししましょう。

スコットランドはメアリー1世の時代からカソリックを信仰し、その第一聖人が聖アンドリュー(アンデレ)であり、聖人が舞い降りた場所からその地をセント・アンドリュース(St. Andrews)と名称し、大聖堂が建設されました。

東西南北、スコットランド全土からの4本の巡礼の道はここセント・アンドリュースで結ばれます。つまりゴルフが誕生したとされるその地はゴルフの聖地である前に、巡礼の聖地なのです。

スコットランドの歴史家達は、ゴルフを崇めるが為に歴史を歪めてしまうようなゴルフ文豪たちに対し、たまたま大聖堂の建築にオランダとイタリアから呼ばれた石切職人たちが、余暇の時間に家畜が放牧されていたリンクスランドで遊んでいた「コルフェン」たる球技がゴルフへと進化したに過ぎないと述べる方もいます。

大聖堂が完成したのは1318年の事です。その時、既にコルフェンは遊ばれ、ゴルフへの進化していったのでしょう。

1559年の宗教改革後に廃墟と化したSt.Andrews大聖堂

ゴルフで最古の記録は1457年、スコットランド王ジェームス2世がゴルフの流行りは騎士道の精神を妨げるとし議会を通してゴルフ禁止令を発令した事からその存在が歴史に登場します。

セント・アンドリュースのリンクスランドからどのようにゴルフが流行りゲームとして発展を遂げていったのかは様々な説がありますが、1754年22名の貴族と紳士たちがセント・アンドリュースに集まり、The Society of St.Andrews Golfersを立ち上げ、ゴルフ普及を促し、彼らはR&A(Royal and Ancient Golf Club of St Andrews)の前身を築きます。

今回はセント・アンドリュースオールドコースについて解説しますので、歴史物語はここからスタートしたいと思います。

18世紀、ゴルフコースのホール数は各クラブによって様々でした。5ホールもあれば7ホールのコースもある。ただ競技の原点となったホール数は第一回全英オープンが開催された当時のプレストウィックGC(Prestwick GC)の12ホールを3ラウンドして36ホールで決着していた事から、ホール数の少ないところでは当然ラウンド数も増えたりしたわけです。

当時セント・アンドリュースも12ホールコースでした。現在の18番グリーン付近から最後が現在の7番と11番ホール付近のイーデン河畔(Eden River)辺りで終わるもので、スタートしたら行ったきりのストレートなルーティングでした。それではトーナメントに支障があると折り返して戻ってくる案が浮上し、同じグリーンを活用した22ホールのコースが完成しました。

1759年ゴルフが初めてストロークプレーで行われた時はまだ22ホールだったのです。しかしこれでは36ホールのトーナメント規定に削ぐわないと1764年に最初の距離が短い4ホールを2ホールにして往復18ホールとし、2ラウンドで36ホールを構成しました。

Old Tom Morrisの立案図

かつてオールドコースは時計廻りのルーティングだった。

一つのグリーンを行きと帰りで交互に使うアイデアは、ゴルフ人口が増えるに従い、渋滞を招く結果となります。

ここで登場したのが球聖オールド・トム・モリスで、彼はグリーンを現在の巨大なダブルグリーンにするアイデアを提案します。行きの9ホールの白色のフラッグ、帰りの9ホールは赤色のフラッグにし、バンカーの配置でホールのグリーンサイドを識別しました。1, 9, 17, 18番グリーンを除く、オールドコースのダブルグリーンの2つのホールナンバーの合計が18になるのはこの単純に折り返すルーティングから生まれたものです。

ここで注目して頂きたい事があります。それは当時の1~18番のルーティングの流れが現在の反時計周りではなく、逆の流れのClockwise、時計回りであった事です。このルーティングでの競技は19世紀後半まで行われていました。

実はR&Aでは年に一度、このClockwise routingでの大会が模様されています。ちなみに著者が知るところでは、97年と98年にタイガーとエルスがR&Aからの招待を受け、このClockwise routingを経験されているようです。

多分、二人はダブルグリーンの攻略法やRoad, High Hole Inなど名物ホールの攻め方を逆に廻ることで何かヒントを得たのかもしれません。2000年の大会でタイガーが圧勝した時、彼がファイナルラウンドの後半で見せたダブルグリーンの攻略法はハザードを徹底して避ける安全を確保する裏ルートでした。

それはインホールにありながら、アウトホール側に近い箇所をターゲットにするものでした。

太線がOld Course 点線がNew Course

Old Course Clockwise routingを現代に表した図

現在の17番グリーンが1番で1番グリーンが17番になる

Clockwiseのルーティングとスコアカード 17番グリーンが1番グリーンになります

ダブルグリーンのオールドコースには各ホールに名前が付いていますが、6つは同じ名称で、2番&16番はDyke, 3番&15番はCartgate, 5番& 13番はHole O’Cross, 6番&14番はHeathery, 7番&11番がHigh Hole, 8番&10番(別名 Bobby Jones)がShortで、語尾にOUT, INをつけています。

112個のバンカーにもそれぞれ名称が付いていますが、最もタフとされる13番Hole O’Cross IN(十字架)の左フェアウェイにはCoffinの名が付けられたバンカー群があり、一つはまさにその名の通り棺桶の形をしています。そのバンカーに入ると縁起が良くないそうで、グリーンの名称もO’Cross、十字架を意味する言葉ですから避けたいバンカーです。

この5番と13番のダブルグリーンはオールドコースではフェアウェイから見て巨大な縦長グリーンになり、攻略ルートに5番は隣の14番フェアウェイから13番は6番のフェアウェイからそれぞれクロスに攻めることがある事からO’Crossの名称が付けられました。

ちなみにCoffin BunkerはMuirfiledの17番、Royal TroonのPostage Stampで有名な8番にも存在しており、その形はまさに棺そのものです。足は踏み入れたくはないですね(笑)。

MuirfieldのCoffin Bunker

Royal Troon 8番 グリーンサイド右のCoffin Bunker

1871年、全英オープンが開催されなかった理由

The Open4連覇のレジェンド、Young Tom Morris 腰にチャンピオンベルトを巻いている

プレストウィックGCが主催となって英国全土のクラブに所属するプロ達を集めたオープン競技を提案し、1860年に同クラブで開催されました。

これが第一回全英オープンのスタートです。ところがふたを開けてみると参戦した選手は僅か8名で、大本命だったプレストウィック所属のオールド・トム・モリスがマッセルバラ所属のウィリー・パークSrに2打差で敗れる事態となった。これには主催した側も失望したが、翌年の大会からトム・モリスは2連覇を果たし面目を保ちます。しかしパークもその後更に2度優勝を果たし、1867年まで、モリス4度、パークSrは3度その栄誉に輝きます。

そして翌年から1870年まで大会3連覇を果たす天才が登場します。

モリスの長男、ヤング・トム・モリスです。プレストウィック側は優勝者にはメダルの他に持ち回りのチャンピオンベルト(チャレンジベルト)を提供し、3連覇を果たしたものはそのベルトを個人の所有として良い条件を出していました。それを19歳のヤング・トム・モリスがやってのけたのです。

その事から1871年はこのベルトからクラレットジャグ(Claret Jug)のトロフィーに変更する案と共に、プレストウック以外のクラブとも連携し、ローテーションを組んでThe Openを開催していく案が浮上します。しかしそれが纏まるのに1年の歳月が必要であった事から1871年の大会はキャンセルとなりました。

1872年プレストウィックでの大会でもヤング・トム・モリスが勝利しますが、この時はまだクラレットジャグが完成しておらず、翌年場所をセント・アンドリュースに移した大会で勝利したトム・キッド(Tom Kidd)に初めて手渡されました。その大会から今年150回大会までにセント・アンドリュースでの開催は30回を数えます。

大会4連覇を果たしたヤング・トム・モリスですが、彼は生涯クラレットジャグを手にする事はありませんでした。75年ノースベーリックでの大会中に愛妻が難産のため亡くなる事態となり、精神的にうち拉がれたモリスはプレーにも精彩を抜き、クリスマスの朝、右肺の喀血が原因で妻と子を追うかのように24歳の若さでこの世を去ってしまいます。

 

Fairway through to the Greenそれはまさにゴルフの母なる大地の証明である。

20世紀初頭の英国でHarry ColtやAlison等と共にコース設計界に君臨し、才人とも称されたTom Simpsonはセント・アンドリュースのオールドコースこそ人間の手が加えられていないマザー・ネイチャーなる大地であり、近代ゴルフにおけるコース設計のバイブルそのものだと著「コース設計の側面」のプロローグの一節に述べています。

同様にオーガスタナショナルの設計者Alister Mackenzieも自身の設計の定義はオールドコースにあると著「The Spirit of St. Andrews」の中で語られています。

彼らが語るマザー・ネーチャーのレイアウトとはどのようなものか、その一つがFairway through to the Green,グリーンにはフリンジ(カラー)がなく、フェアウェイとグリーンの境目がわからないほど一体化したグランドレベルグリーンです。

フェアウェイに流れる砂丘の起伏ラインはそのままグリーンへと流れていきます。地盤が固いだけにグリーン手前30ヤードからパターで攻めるなど当たり前の攻略法です。つまり起伏を登っては下っての繰り返しのラインがどのようにピンに近づくか、まさに転がりのイマジネーションが必要となります。


Alister Mackenzieは人間の手(Man-made)でこれを創る場合、この転がりを楽しませるには登りのスロープラインの上に自然の起伏と人工のマウンドを織り交ぜたグリーンを構成する案を描きました。後に語られるMackenzieのスローピンググリーンです。


英国の作品で始められたこの手法は、地形の高低差が55mもあるヒーリーな地形のオーガスタナショナルでも活用されます。

オーガスタのグリーンはまるで坂道に張り付いているかのようにも感じると述べるトッププロたちもおりますが、修復改造を繰り返してきたオーガスタナショナルですが、このMackenzieのThe Spirit of St. Andrewsの精神は今もしっかりと引き継がれています。

 

クラシック設計のテンプレートとしてオールドコースから引用されたホール。

11番 High Hole In (Eden Hole)

後方のバンカーが名物のStrath bunker, 手前がShell bunker.

グリーンの難度とはどこにポイントを置き、トッププロたちにあらゆる技術を駆使させることができるか。

トーナメントコースの改造においてそれは最大のテーマでしょう。グリーンのスピードとコンパクションを高めれば、ある程度の難グリーンにはなりますが、トッププロ達の様々な攻略法を引き出せるとは限りません。

かつて日本ではグリーンは手前から攻めることが通常でした。それはグリーンの前部が最も安全且つフェアなゾーンであったからです。

しかしリンクスやクラシックコースではそこが必ずしも安全なゾーンに考えられていたわけではありません。むしろグリーンの特徴を出す最大の箇所という認識にあり、今日多くのコースの改造がこの理論に回帰しています。

オールドコースの11番PAR3、High Hole Inの名称を持つこのホールはかつてジ・オープンで様々なドラマを生みました。

ボビージョーンズは左のHill Bunkerから脱出に4打を要し、更に多くのプロたちが手前のStrath bunkerにつかまり、戦線から脱落していった歴史があります。何故彼等がそのリンクスの罠にはまったのか、それはグリーン後部から前部へと流れる傾斜を横切る起伏によって生まれたアンジュレーションの流れです。

グリーンを捕えたはずの打球が風の勢いでStrath bunkerに転がり落ちることもあります。センターから奥に狙いを定めるならば、パッティングは下りの勾配度の中、複雑なアンジュレーションはパッティングのイマジネーションを要求します。

ピンが左奥に切られた時、風の計算を間違えれば、ジョーンズのようにHill bunkerの餌食になることもあり、プレーヤーにはStrath bunkerの奥からむしろ右をターゲットにするケースもあります。このホールは、C.Bマクドナルドによってイーデンホール(Eden Hole)のクラシック理論として米国に伝えられ、多くの設計家たちがグリーンのフロント部分のあり方をグリーン上の戦略性に取り入れたのです。

この理論をAlister Mackenzieはオーガスタナショナル4番PAR3で紹介しています。

解説と図 WGD連載ゴルフコース好奇心 No.27より抜粋。

Augusta National #4 hole

 

14番 「Long」


大会では618ヤードの最長を誇るPAR5で、OBのある右は避け、フェアウェイ左、隣接する5番フェアウェイをコネクトするエリシアンフィールド付近にティショットを運ぶ攻略ルートが最も安全とされています。

2打目のターゲットラインにはグリーンから110ヤード地点にある巨大なHell Bunker(地獄のバンカー)が構えており、絶対に避けなければなりません。Longの理論はグリーンまでの3打全てに価値のある攻略ルートを示す意味が込められています。

 

17番 「Road」

一番後方のバンカーがRoad Bunker( Tommy’s Bunker)



オールドコースだけでなく、世界で最もタフあり、3オン1パット=パーセーブを余儀なくされるPAR4。グリーンに転がり上がる打球が吸い込まれるかのように落ちるRoad Bunkerはこれまで数々の悲劇を生んできました。

右ドッグレッグのこのホールはオールドコースホテルの看板を横切るようにショートカットルートを選択します。しかしアプローチの条件が整わない限り、プロであっても2オンを避ける有名なパー4です。

ほぼ横長に配置されたグリーンの手前にはRoad Bunker、そしてグリーン奥には道路が接しています。ひとつ間違えれば、ボギー以上のスコアを覚悟しなくてはなりません。

攻略の裏街道としてかつてアニーエルスがラフからの悪条件の中、通常のルートとは逆にグリーン左サイドの花道を狙い、チップインバーディを奪った事があります。かつてオールドコースが時計回りのClockwiseルーティングだった時、現在の17番グリーンは1番グリーンでエルスの攻略ルートはその花道を選択した事になります。

 

#18 「Valley of Sin」罪の谷 (Old Biarritz)



風など条件が整えばトッププロなら果敢に1オンを狙う最終ホール、しかしそこにもリンクスの神が仕掛けた自然の罠が存在します。

グリーン左手前の急勾配なSwaleは一度グリーンへ転がった打球を吸い込みかのように戻す罪の谷 Valley of Sinと呼ばれています。クラシック設計のTemplate Holeの中で最もユニークなのは、縦長で中央に深い溝(Swale)を持つビアリッツグリーンがあります。

そのオリジナルはウィリー・ダンがフランスの避寒地ビアリッツで設計したゴルフ・ド・ビアリッツ(Golf de Biarritz)の3番カァズムホール(Chasm Hole)から誕生しました。ダンはこのクリフ越えのロングパー3で、オールドコース18番グリーンの左手前にある罪の谷(Valley of Sin)を演出しようと考えました。

グリーンにわずかでも届かない打球はスロープで球は転がり落ちていく設計である。後にこのアイデアは、C.B.Macdonaldによって、米国に伝わり、Biarritzの名称で知られるようになります。

絵と図 Golf de Biarritz #3 Chasm グリーンフロントが急勾配な溝、Valley of Sinになっていた。

その後、MacdonaldのパートナーであったSeth Raynorが作品を改良していく中で、このBiarritz Holeをよりオールドコースに近づけたいと考えました。米国の土壌ではスコットランドリンクスの硬い地盤と同じ条件にすることは難しく、ならば手前のアプローチエリアもグリーンにすれば、もっと罪の谷の恐ろしさを縦のレングスでグリーンの前後を楽しめると考えました。

つまり罪の谷をグリーンのセンターにすることで、ホールロケーションが罪の谷の手前にくることも演出できるアイデアです。

作品の多くはRaynorによって、罪の谷の部分もすべてグリーンになり、縦長のグリーンの中央に深い溝(Swale)を持つホールに変化していきます。

このアイデアはNorth Berwickの*Double Plateauのグリーン形状をインスパイアしたとも言われている。現在のモダンクラシック設計の時代、このBiarritz Greenは多くの設計家たちによってリバイバルされています。

尚、Biarrtiz GreenはRaynorが改良する以前のChasmを基本にしたものを、Old Biarritzと呼んでいます。

Camargo Club #8 Biarritz

Mid Ocean Club #13 Biarritz SwaleがグリーンではないOld Biarritz

Text by Masa Nishijima

Photo Credit by Masa Nishijima, Larry Lambrecht, R&A, GOLF.com, RGD, Golf de Biarritz.