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馬文化を語れば、絢爛豪華なヨーロッパばかりに目を向けてしまいますが、ようやくユーラシア大陸を横断してきたので、ここで日本の馬のお話を一つ。

『日本の馬』から連想して、皆さんはどんな馬の姿を思い浮かべられますか。馬鍬を引き、ゆっくりと田畑を耕している姿でしょうか。甲冑姿の武将を背に、凛と佇む姿でしょうか。はたまた、美しい緑の絨毯の上を疾走する姿でしょうか。中には、馬車よりも牛車が頭を過ぎった方もおられたかもしれません。

実は多くの日本人にとって広く一般に語られるこうした馬の姿こそ『日本の馬』。ステレオタイプだと思われるかもしれませんが、大陸の諸民族と比べれば大方、馬は決して『身近な存在』では無かったのです。日本人にとって馬は『いれば尚良し!』まさにそんな間柄でした。

もちろん、時代や身分、生業によっても馬との距離感は様々です。歴史的にみても、馬に纏わる逸話や伝説は全国各地に残り、中でも源義経が仕掛けた鵯越の逆落としは余りにも有名です。また、時の権力者たちは挙って駿馬を求め、共に勢力を拡大していきました。奥羽の名将・伊達政宗の騎馬像は、当時の名残を物語るかのように、今も堂々と城下町を見守り続けています。

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それでもやはり、誰も彼もが馬に馴染みがあったわけではありません。日本では古くから農耕文化が発展し、一つの土地に根ざした生活スタイルが一般的だったことや、海に囲まれた領土には山岳地帯が多く、人の往来すら容易では無かったことなどが、必ずしも生活に馬を必要としなかった理由に挙げられるでしょう。

さらに、1600年代に入るとヨーロッパでは辻馬車や乗合馬車などが誕生し、馬車は一気に大衆化します。当時、日本では江戸に幕府が開かれ、政治・経済・文化の中心が東へと移りました。元々、東は武士文化ですから、馬車が普及しても良さそうなものですが、実は馬車こそ江戸の町の大敵だったのです。

260年以上に渡る長期政権を築いた江戸幕府は、政治の安定とは裏腹に、城下町の地盤が非常に軟弱でした。急激な発展を遂げた江戸の町。中でも、大衆で賑わう下町の大半が埋立地でした。そのため、轍を嫌い、馬車は疎か大八車でさえも、その使用を制限されたのです。さらに、平穏の続く世の中によって、武士も馬術の鍛錬をしなくなり、馬はますます遠い存在になりました。

その後、文明開化と共に日本でも乗合馬車や鉄道馬車の運行が始まりましたが、時は既に19世紀。今度は産業革命の波が押し寄せ、自動車が登場します。また、日清日露の戦争を経て、日本は軍馬増強を打ち出しましたが、あくまで軍部でのこと。特に当時の女性や子どもにとっては知る由も無かったのです。

長い時間をかけ、広く大衆にまで馬文化が普及したヨーロッパや、生きるために騎馬を必要とした遊牧民たちの暮らす大陸とは全く異る歴史培ってきた日本。それでも現在、日本の競馬は世界が羨む巨大産業として成功し、日本の乗馬はエクササイズやレジャーとして定着しています。守るべき歴史が無かったからこそ得られた新しい馬文化。世界的にも稀な今の姿こそが『日本の馬』なのかもしれません。

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MILKY KORA

馬ジャーナリスト / Maraque編集長。京都生まれ。
幼い頃から馬術を嗜み、乗馬専門誌の編集を経て馬ジャーナリストとして独立。2010年に世界最高峰のホーススポーツを伝えるEquine Journal Maraqueを、さらに2014年にはより専門性の高いMaraque for Professionalを創刊。現在は日本で唯一のホーススポーツ専門誌として発行を続ける傍ら、ライダーのマネジメントや馬イベントの開催など馬に関する幅広い活動を行っている。