マスターズ その偉大なるトーナメントの流れ by MASA NISHIJIMA

オーガスタナショナル5番のグリーンの勾配度。 グリーンに乗れどそれがスロープ上であれば、球はこぼれ落ちる。前部はオールドコース18番のグリーンフロントにある罪の谷そのものだ。 photo by Andy Wada 2016

オーガスタナショナル5番のグリーンの勾配度。 グリーンに乗れどそれがスロープ上であれば、球はこぼれ落ちる。前部はオールドコース18番のグリーンフロントにある罪の谷そのものだ。 photo by Andy Wada 2016

Chapter 7
PAR3のトータルヤーデージを考えてみよう。

用具の進化から飛距離が伸びる昨今、パー3のヤーデージを伸ばすコースも多くなりました。それらはダウンヒルやアップヒルなど地形の条件によって様々ですが、PGAツアー開催コースはもちろん、メジャー大会でもその傾向にあるようです。日本でもタフに設定したいが為に、4つのパー3のうち、3ホールは200ヤード前後又はそれを超えるようなコースも登場しています。しかしこれらの傾向は1ショットホールというパー3の本質を正しく捉えているとは言い難いものです。ゴルフコースを評価する場合、バー3, 4, 5それぞれのコレクション(収集)査定という項目があります。例えばコレクションパー3ならば、パー3ホールすべての評価をアベレージで表すものです。仮にパー3が4ホールあるならば、そのトータルヤーデージに注目してみると良いでしょう。下記の表をご覧ください。米国の名コースにあるトーナメント時のホールヤーデージとそのトータルです。マスターズ時のオーガスタナショナルは、240, 180, 155, 170でトータル745ヤードで、パー3でもショート、ミドル、ロングを設定した見事なヤーデージバランスを整えています。ペブルビーチ、TPCソーグラスも同様でしょう。ペブルビーチの7番は僅か106ヤードの距離でありながら風の計算をひとつ間違えればボギー覚悟のホールです。TPCソーグラスの17番アイランドグリーンも137ヤードの距離ながら大会中に何人のプレーヤーが池にボールを打ち込んだことでしょうか。当然これらのパー3は印象度が高いものになるでしょう。07年度のオークモントでの全米オープンでは8番パー3が288ヤードの距離で話題を呼びました。パー3のトータルヤーデージはなんと896ヤードでした。しかしながら一般のバックティからは757ヤードであり、オープン時との差は140ヤードです。これらを考えてみるとパー3のトータルヤーデージは700前後、長くとも750前後が1ショットホールとして最もプレーヤービリティ高い、距離にもバライティを持たせられる設計にある事が理解できるはずです。

4ホールの合計 バックティ-トーナメント時 ( ) ホール番号 トータルヤーデージ
オーガスタナショナル 170-240(4), 165-180(6),145-155(12), 145-170(16) =625-745
ペブルビーチ     142-192(5), 98-106(7),187- 201(12), 170-177(17) =597-676
シネコックヒルズ 193-221(2), 173-184(7), 150-158(11), 149-169(17) =665-732
オークモント 168-194(6), 225-288(8), 153-183(13), 211-231(16)=757-896
TPCソーグラス 160-177(3), 193-237(8), 156-181(13), 128-137(17)=637-732
パインヴァレー   181-198(3), 219-235(5), 142-161(10), 187-220(14) =729-814

※注 1ショットホールとは一打でグリーンを狙えるホールのこと。

ニクラウスは、オーガスタナショナルのグリーンには1フィートのバリアがあると表現したことがある。つまりカップ周り1フィートはどう切れるのか、真っすぐ突き抜けてしまうのか、帝王にそれを嘆かせたグリーンがこの14番である。ここもグリーンフロントはすべてこぼれ落ちる。その坂を上りつけた位置にピンが切られた時、プレーヤーはそれをキラーピンと表現する。絶対にデッドに狙えない、攻略ルートはピンに対し、対角線で攻めるしかない。 photo by Andy Wada 2016

ニクラウスは、オーガスタナショナルのグリーンには1フィートのバリアがあると表現したことがある。つまりカップ周り1フィートはどう切れるのか、真っすぐ突き抜けてしまうのか、帝王にそれを嘆かせたグリーンがこの14番である。ここもグリーンフロントはすべてこぼれ落ちる。その坂を上りつけた位置にピンが切られた時、プレーヤーはそれをキラーピンと表現する。絶対にデッドに狙えない、攻略ルートはピンに対し、対角線で攻めるしかない。 photo by Andy Wada 2016

Chapter 8
オーガスタの神秘

Getting in a water hazard is like being in a plane crash, the result is final.
Landing in a bunker is similar to an automobile accident, there is a chance of recovery.
Bobby Jones.

この言葉の後に「ウォーターハザードは、ゴルフからリカバリーの妙味を奪う最悪なるペナル」と紹介された。皮肉にもオーガスタナショナルの台地には、いくつものクリークが流れ、それは隣接するオーガスタカントリークラブを経由して、サバンナ川へと注がれていく。
オーガスタナショナルの改造の歴史の中に、クリークをせき止めたり、大地の中、ドレインでその方向を変え、プレーに支障がないように施した歴史がある。しかしこれが災いしてか、この地方特有の集中豪雨で、クリークは氾濫し、いたるところに水溜りができてしまう結果となる。高低差が140フィートを超えるとも言われるそのふたこぶラクダのような地形は、アリスター・マッケンジーという天才設計家が描いた18ホールのレイアウトによって、存分にその特徴は活かされた。その自然のスロープラインこそが、トップたちにその技術を磨かせたオーガスタ最大のハザードとも称された。しかし豪雨ともなれば、そのスロープの地中を蛇行するかのように水は流れ、低地へのクリークへと流れていく。泥濘んだフェアウェイ、オーガスタナショナルはこの対策に明け暮れる日々が続く。マッケンジーの16番はクリークに沿って、12番とよく似たレイアウトだった、その戦略性は、英国の名門ストークページの7番パー3をモデルに考えられたもので、その位置は現在のパトロンが観戦する池の向い側にあった。戦後、マスターズ最初の改造はこのホールであった。ジョーンズは、現在の位置にグリーンを移し、レダンタイプの戦略性に、クリーク幅を広げるアイデアをスケッチに描き、オーガスタナショナル創設者の一人でもあり、理事長のクリフォード・ロバーツに渡した、そして二人は当時ウォーターハザードの戦略的理論で売り出し中のロバート・トレント・ジョーンズSRが、ピーチツリーGCの設計でアトランタを訪問していたので、オーガスタまで呼び出し、ここで三者会談が始まり、ジョーンズSR指導のもとに、グリーンとクリークの改造は行なわれた。翌年には豪雨時に泥濘ってしまうフェアウェイを池に改造する。ティーは15番グリーンの右にあったが、これが現在の位置に移動したのは60年代になってからのことである。ウォーターハザードを最悪なるペナルと批評したジョーンズであったが、マスターズを史上最高のトーナメントコースとするために致し方ないと考えたのであろうか。

完成当時の10番ホールの光景(現在の1番)。 Augusta NationalGC 資料室より

Chapter 9
トーナメントの流れ 72章の小説

No PAR ヤーデージ 平均スコア 難度ランク バンカー数 トーナメントの流れ
結果に対する捉え方
1 4 445 4.23 6 2 ボギー=パー
2 5 575 4.79 16 3 バーディ=パー
3 4 350 4.08 14 5 パーマスト
4 3 240 3.28 4 2 パートライ
5 4 455 4.26 5 3 ボギー=パー
6 3 180 3.13 13 1 バーディトライ
7 4 450 4.15 11 5 パーマスト
8 5 570 4.83 15 1 バーディ=パー
9 4 460 4.14 12 2 パーセーブ
10 4 495 4.31 1 2 ボギー=パー
11 4 505 4.29 2 1 リスクと報酬 ボギー=パー
12 3 155 3.28 3 3 パーセーブ
13 5 510 4.78 17 4 リスクと報酬イーグルトライ
14 4 440 4.17 8 0 リスクと報酬パーマスト
15 5 530 4.77 18 1 イーグル=バーディ
16 3 170 3.15 9 3 ヒロイック パーマスト
17 4 440 4.15 10 2 ボギー=パー
18 4 465 4.22 7 4 ヒロイック パーセーブ

PAR 72  7,435 yrds *Total Number of Bunkers 44

もしマスターズという大会が存在しなければ、ゴルフは世界中でこれほどの普及を果たしたでしょうか。誰もがノーと答えるでしょう。その舞台となるオーガスタナショナルは、自然の起伏に富んだゴルフコースに最も適した地形にあります。オーガスタと言えば、砂面をフラッシュさせた美しいバンカー群が印象に残られるでしょう。しかし意外にもその数は計44個しかありません。それ以上の数は必要ないほど素晴らしい高低差の中に、巧みな自然のスロープラインを活かして、18ホールがレイアウト、構成されています。むしろそこにバンカーがあれば、ブラインドになるなどアンフェアーな設計とも言われるでしょう。オーガスタのコース改造は、トータルヤーデージを伸ばしながらも、USオープンのようにタフさばかりを求めるのではなく、マスターズと呼ぶに相応しいトッププロたちに研ぎ澄まされた技術を披露させ、多くのドラマを演出する舞台作りにあります。昨年度の覇者スピースの18アンダーを筆頭に、5位の松山の11アンダーまでの5人が二桁アンダー以上、更に9アンダーは3人おり、32人がアンダーパーで4日間の大会を終えています。しかしマスターズでのアンダーパーは、他のトーナメントとその内容はあまりにも違います。それは起伏の厳しいグリーンを持つ18ホールの構成とその流れにあります。オーガスタのグリーンほどピンポジションによりその攻略法が変わり、スコアが大きく変わるコースもめずらしい。その日はバーディを狙いにいけるホールも、翌日にはなんと「ナイスボギー」のホールに様変わりします。いいですか皆さん、ボギーをとってナイスなんです。つまりそれはトーナメントの流れの中では、パーに等しい価値となる。オーガスタナショナルのパー5ホールは、ティショットにすべてヒロイックを演出させます。2番はダウンスロープの中で、2ndは、視界の中で、どのような打球を打てば、グリーン上で球がどう転がるかをイマジンさせ、8番はアップヒルバトルなラインの中、2ndでは、ブラインドなイマジネーションショットを、パンチボウルグリーンの中で演出させます。タイガーが屈辱を味わった15番も素晴らしいが、何と言っても極めつけは、世界のベストショートパー5に選ばれる13番です。これぞ、世界のベストなRisk & Reward(リスクと報酬)のパー5ホールです。今年、このホールは、隣接するオーガスタCCの土地を購入し、将来は僅かですがティを後方に下げるか左右に振るかの計画にあります。その最大の理由は、かつてあった左サイドのクリークに沿ったドッグレッグラインに打たせることに最大のアドバンテージ、つまりヒロイックを演出することなのです。キラーピンでない日、タイガーのプッシュアウトからの右上からのショットがイージーバーディを演出してから、多くのゴルファーがこの右サイドルートをバーディセーブの攻略ルートにした。これはマスターズ委員会にとって屈辱にも思えるが、このホールの攻略の哲学、つまりトーナメントの流れを重視するならば、リスクと報酬の2ショットパー5であり、イーグルトライ、上位争いでは、バーディはむしろパーに等しいくらいの価値にすることで、次の14番、そして更なるパー515番にそのステータスを流し、最終の3ホールに、ゴルファーの英知を極める攻略法に繋げるのです。しかし戦後、マスターズの中の最大のマスターヒーローと称されるジャック・ニクラウスは「ヤーデージを伸ばしたところで何の意味もない。」と皮肉りました。ジャックはホールに多少の変化を加えても、勝てる者の攻略ルートはひとつだと述べます。つまりイーグルを狙わん者にグリーンジャケットを着る資格は無しと述べているようにも感じます。ひとつ間違えれば、クリークに落ち、ボキーいやダブルボギーで戦線離脱です。2年前の秋に、十数年振りに、オーガスタナショナルの神秘たる研究の為、僅か3日間でしたが、ドミトリーに滞在させてもらい、勉強させて頂きました。その中で、コースは、決勝からはサバイバルゲームを演出するレイアウト、設計になっていると思いました。歴代のコース設計家や専門家たちの多くは、これまで、クリフォード・ロバーツの意思決定によるマスターズの為のオーガスタの改造を「マッケンジーのテイストが失われる最大の汚点」だと非難し続けました。しかし最初にここに滞在させた頂いた40代はじめの頃に、ひとつ解ったんですね。朝夕、オーガスタナショナルの150フィート以上はあるUp and Downの地形を歩いていると、グリーンはすべてスロープラインの上に造られている。大袈裟に表現するならば坂の上にグリーンという絨毯が歪んだ地形の上に引かれ、時にリッジやマウンドは球をグリーン上に留める役割も果たしていることを。皆さん、マスターズで、出来たら練習ラウンドの時に可能だと思いますが、地形のスロープに目線をあわせてグリーンをみて下さい。18ホール、すべてのグリーンが地形の勾配度の中にレイアウトされ、そのフロントラインは5%以上の勾配率にあることを。つまりそれはグリーンに乗っても球はこぼれ落ちることを意味します。オーガスタのドミトリーの最後の夜、酒も入っていたのか、夢に探偵エルキュール・ポワロが登場し、2番ホールのティで、私に言うんですね。「坊や、オーガスタの神秘を知りたかったら、今、君が立っているところから見渡せるところまでを真っ平らに想像してごらんなさい。そこはセントアンドリューズオールドコースだよ。」そのエルキュール・ポワロは、実はアリスター・マッケンジーだったのかも知れない。笑。トム・ドォーク、ギル・ハンスはじめ、現代の著名コース設計家たちは、改造されてきた今日のオーガスタナショナルを非難されるでしょう。でもコースコメンテーターの私は違う。オーガスタナショナルの設計哲学は、すべてセントアンドリューズ・オールドコースのグリーンから計られていることを悟らせて頂いたから。

ゴルフはそのホール数から18章の物語ともいわれますが、マスターズでの4日間は、クライマックスなるシーンがいくつも登場し、まるで72章の物語があるかのようです。その中で、最終日は、リスクと報酬をかけて立ち向かうトッププロ達のし烈な戦い場となります。リスクに立ち向かわない弱者はグリーンジャケットを手に出来ません。

オーガスタナショナルのUp and Downを示した10番のレイアウト図。ティからグリーン手前のハローの低地まで、なんと32メールの高低差にある。それは川奈富士コースの海に向かっての打ち下ろしの1番ホールとほぼ同じ高低差である。

オーガスタナショナルのUp and Downを示した10番のレイアウト図。ティからグリーン手前のハローの低地まで、なんと32メールの高低差にある。それは川奈富士コースの海に向かっての打ち下ろしの1番ホールとほぼ同じ高低差である。

ALISTER MACKENZIE TIMELINE

1870 – Born in Normanton, Yorkshire, England.
1888 – Enrolls in medical school.
1897 – Receives bachelor medicine and surgery degree from Cambridge.
1899-1902 – Served as a civil surgeon for the British Army during the Boer War in South Africa.
1905 – Marries Edith Mary Wedderburn.
1907 – Golf architect Harry S. Colt stays with MacKenzie while visiting Alwoodley in Golf Club in Leeds, England.
1912 – Introduced to Robert Hunter by Colt.
1914 – Wins first place in Country Life contest to design a hole for the Lido Golf Club in New York; World War I begins, and MacKenzie is again assigned as a civil surgeon.
1915 – Commissioned as lieutenant in the Royal Engineers; Elected to membership in the Royal and Ancient Golf Club.
1920 – Forms partnership with Colt and C.H. Alison; Golf Architecture, his principles of course design, published.
1922 – Survey of St. Andrews Golf Links is approved; plan accepted in 1924.
1923 – Partnership with Colt and Alison ends.
1926 – Leaves England en route to California for first leg of his famed “World Trip.”
Receives Cypress Point commission in February.
Returns to England in March.
Attends Walker Cup Matches at St. Andrews and final round of British Open at Royal Lytham and St. Annes in June.
Redesigned greens at holes 8 and 13 at Pebble Beach in September.
Returns to England and sets sail for Australia via the Suez Canal in late September.
Visits several golf clubs in Australia and submits plans for designs/redesigns in October, November and December.
1927 – Visits New Zealand; departs for California in February. Works on Cypress Point. Returns to England in late March. In July, attends British Open at St. Andrews and meets Bobby Jones.
1928 – MacKenzie and Hunter arrive at Cypress Point in January to supervise construction. Cypress Point opens in August.
Tours several courses in Canada in August and September.
Visits site of Pasatiempo Country Club in October.
1929 – Attends U.S. Amateur at Pebble Beach and attends exhibition match featuring Jones on opening day at Pasatiempo.
1930 – Divorce from Edith finalized in January; marries Hilda Sykes Haddock in May. Attends Walker Cup Matches at Royal St. George’s in May. Also watches Jones vs. Cyril Tolley match in British Amateur at St. Andrews. Ground broken for home at Pasatiempo in November.
July 10, 1931 – Meets with committee of Augusta National Golf Club at Vanderbilt Hotel in New York.
July 14-16, 1931 – On site at Augusta National with Jones and Wendell Miller, chief engineer.
September-October 1931: Long visit to Augusta.
Oct. 6, 1931: MacKenzie and Jones rout the plan for Augusta National.
October, 1931 – “Many who play (Augusta National) for the first time may not like it, but as they play it, they will solve problems that they failed to conquer in the first round and find a new and interesting variety of shots every time they go over it. ” – Alister MacKenzie, during an October 1931 visit to Augusta
March-April 1932 – In Augusta to oversee shaping of greens.
Jan. 6, 1934 – MacKenzie dies at his home at Pasatiempo. Ashes were believed to be scattered on the golf course.
Aug. 14, 2005 – Inducted into World Golf Hall of Fame.

BOBBY JONES TIMELINE

1902 – Born in Atlanta
1916 – Jones wins the Georgia State Amateur at the age of 14. He also competes in the U.S. Amateur at Merion Cricket Club, becoming the event’s youngest competitor.
1921 – During the third round of the British Open, Jones disqualifies himself.
1922 – Jones completes a degree in mechanical engineering at Georgia Institute of Technology.
1923 – Jones wins the U.S. Open, his first major championship victory.
1924 – He marries Mary Rice Malone and finishes a degree in English literature at Harvard.
1926 – Jones becomes the first player to win the U.S. and British Opens in the same year.
1927 – Down the Fairway, written by Jones and longtime friend O.B. Keeler, is published.
1928 – Jones is admitted to the Georgia bar after one year of law school.
1930 – By winning the U.S. Open, U.S. Amateur, British Open and British Amateur, Jones captures the Grand Slam. He retires from competitive golf at the age of 28.
1931 – Fruitland Nurseries is purchased, and construction of Augusta National Golf Club begins.
1934 – The first Augusta National Invitation Tournament is held at the course designed by Jones and Alister Mackenzie. Jones plays in a tournament for the first time since retirement.
1942 – Jones is commissioned as a captain in the Army Air Forces. He is honorably discharged in 1944.
1948 – Jones makes his final Masters appearance as a competitor and plays his final round of golf in Atlanta.
1955 – The U.S. Golf Association establishes the Bob Jones Award, its highest honor.
1958 – The citizens of St. Andrews confer the Freedom of the City and the Royal Burgh of St. Andrews on Jones.
1968 – Attends final Masters Tournament.
1971 – Jones dies Dec. 17 and is buried in Atlanta’s Oakland Cemetery.
1972 – The 10th hole at St. Andrews is named in his honor.
1974 – Inducted into World Golf Hall of Fame.


masa-nishijima-photo-by-brian-morgan_sq-320x320MASA NISHIJIMA

ゴルフコースコメンテーター&コースアドバイザー。東京生まれ。
明治大学卒業後、米国留学。
ドン・ロッシーの元でゴルフコースのクラシック理論を学ぶ。
現在まで世界56カ国2300コース以上を視察。
1989年より、米ゴルフマガジン誌世界トップ100コース選考委員会に所属。
1991年から2015年までは同委員会の国際委員長を務める。
「ゴルフコース好奇心」,「ゴルフコース博物誌」「The Confidential Guide 」などの著書もある