ベーブ・ルースとボビー・ジョーンズ

ベースボール界、ゴルフ界を支えた二人の球聖の話に入っていきたい。1919年、後に世界ナンバー1コースとなるパインヴァレーが完成した年に、ベースボール界ではベーブ・ルースが登場し、ホームランを連発、国民のヒーロー的存在となった。その年に球界を揺るがしたブラックソックス事件と後に呼ばれたワールドシリーズでの八百長事件が発覚し、ベースボールは信頼を失いかけていた時だけに、ルースの登場はまさに救世主的存在となった。その頃、ゴルフ界ももちろんプロのトーナメントが活発になり、ウォルター・ヘーゲン、ジーン・サラゼン等の新世代のスターを生み出していくが、それはあくまで上層階級をパトロンに抱えたスターであり、一般庶民の憧れとなる存在には成りえなかった。
しかしルースが脚光を浴びるほぼ同じ時期に、ジョージア州出身の一人の青年がアマチュアゴルファーとしてゴルフ界に登場する。全米オープンでプロ達と競い合い、後に英国での全英オープンにも勝つ等、グランドスラムを達成、ゴルフ界が生んだ最初の国民的ヒーローとなる男が登場する。その青年こそが後にゴルフ界の球聖と称えられるボビー・ジョーンズその人である。ハイソサイティーの社会に存在したプロゴルフの世界に対し、アマチュアの青年ジョーンズが立ち向かう姿は大衆にとっても注目の的となった。そしてトーナメントに集まるギャラリーの誰もがプロではないジョーンズの勝利を期待した。ゴルフはジョーンズによって初めて大衆からも注目されるスポーツになろうとしていた。彼の美しいスウィングにギャラリーの誰もがため息をはき、それは現在でもゴルフスウィングの教本とされている。ジョーンズは裕福な家庭に育ち、法律家を目指したその学歴も飛びぬけていた。けして貧民から這い上がってくるという米国ならではのサクセスストーリーにないこの男が、何故フロンティア精神溢れる一般大衆からも尊敬の念を持たれたのか、
それはジョーンズが終身アマチュアゴルファーとして君臨したからに他ならない。
上流社会のパトロンを従えたプロ達は一般庶民にとって当時見えない存在であったはずだ、その社会に対する人間への不安と不信感、妬みにも似た気持ちが、ジョーンズという一人の青年スターによってきれいに洗い流されたのだと思う。

Babe Ruth

Babe Ruth

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Bobby Jones

審判とルール

個人スポーツのゴルフにおいて、そのスコアはプレーヤー本人が提出するジェントルマンシップなものである。ベースボールやクリケットはその判定を審判に委ねるが、ゴルフは本人が時としてその審判を務めなくてはならない。ジョーンズのそのルールを頑なに守る紳士的なプレー振りは多くの語り草を生んだ。その有名な話の中に1925年の全米オープンでの出来事がある。大会二日目の11番ホールでそれは起こった。彼のアイアンがアドレスの時にラフの草に触れ、その弾みでボールが少し動いてしまった。それを誰も見た者はいなかったにもかかわらず、自らペナルティーの一打としてスコアに加え提出した。ジョーンズは自ら提出したその一打の罰で優勝を逃したのだ。ベースボールならば、地面寸前で取れなかった打球を審判がアウトと誤審して宣告するのに対し「いや、いまのはワンバウンドですからヒットです」とキャッチできなかった本人が審判の誤審を訂正する発言をするだろうか。それは団体球技のベースボールやサッカーにおいて、選手がチームの有利を不利にする言動などは絶対にありえない事だ。審判の判定に対してクレームを申し出る事が日常茶判事のように行われるベースボールの社会を見てきた米国人にとって、同じ米国人であるジョーンズの自らが下した判定はどう写ったのであろうか。ゴルフという球技がいかにクリーンな精神で戦うものかを理解させると同時に、スポーツだけでなく、日常社会のルールにおいても、それを守れる事への人格的尊さを再発見させるものであったはず。米国は移民国家である。それぞれに違った生活環境、異なった宗教で育ちながらも米国は個々を尊重し、国家への忠誠を誓わす国である。そこには多民族自由主義国家としての国民である為の一定のルールがなければ社会は成り立たない。ジョーンズの正当な行為は英国のゴルフ社会では当たり前の事であっても、当時ベースボール等審判に判定を委ねるスポーツが盛んな米国の環境において、後世へと語り継がれる美談となった。

二人の国民的ヒーローが作り出した経済効果。

一般庶民にとって、高嶺の花のスポーツであったゴルフだが、ジョーンズの時代にゴルフ人口が急激な伸びを示した。ゴルフの一般大衆化、お金さえ払えば誰もがプレーできるパブリックなゴルフコースもこの時代に多く生まれた。「自分達もがんばればゴルフだって遊べるのだ。」誰もがまだ高額だったゴルフクラブを購入する事に夢中になり始める。黒人をキャディーとして雇うクラブが生まれたのもこの時代からの事である。差別意識のまだ強かったこの時代、当時はかなりのセンセーショナルな出来事で、普段はゴルフを掲載しない新聞までもがこれを取り上げたと言う。
ジョーンズが聖地セント・アンドリューズで行われた全英オープンを連覇し、セント・アンドリューズ市民達の絶大な歓声の和の中で、ジョーンズが勝利の18番グリーンに立ったその27年、ベーブ・ルースは前人未到の60本塁打を記録し、ヤンキースを黄金時代へと導いた。二人の偉大な記録とその存在は後に海を越えて日本にも伝えられた。ルースとジョーンズ、二人はまさにこの時代の米国が誇る国民的ヒーローであった。
ジョーンズはそれまであまり報道されなかったゴルフに光を注いだ。「南北戦争の英雄ロバート・リー将軍に並ぶほどの人気ある南部人」と紹介したジャーナリストもいる。
そしてベースボールとゴルフという二つのスポーツにおいて、そのファン層の気質も大きく変わっていく。一定の年齢でしかプレー出来ないベースボールに対し、ゴルフは老いてもまだ遊べるスポーツであった。観戦から生まれるスター選手への憧れと実際にプレーしている自分とだぶらせて観るゴルフのトーナメント、ファンが抱く憧れの精神、彼等の観戦へのモチベーションも違ったものであった。ベースボールには歓声に野次が交じり、ゴルフは静かな観戦風景から放されるひとつひとつのショットに対し歓声と静かなため息が生まれたのだ。
ベーブ・ルースがヤンキースを黄金時代に導いた時代、彼の年棒は当時の大統領よりも多い8万ドルに達していたと言う。今でこそ両球界のスーパースター達の年収は政界の誰よりも多い。しかしルースの時代、トーナメントの数も少なかった事からゴルフ界ではまだ年間獲得賞金額で一万ドル以上のゴルファーはいなかった。いや、ベースボール界でも一万ドルを超える選手は限られたスター選手のみであり、ルースだけが別格であったのだ。当時はニューヨークの高級住宅地が一万ドル以下でも手に入れる事が出来た時代である。ちなみに戦後開発されたロスアンゼルスのベバリーヒルズの一等地が三万五千ドル程度だったと聞けば、当時のルースの年棒は国民の想像を遥かに超える空前の破格年棒であったことが理解できよう。

球聖の引退、そして大戦へ

スポーツ界のスター選手達の存在が世論を賑わせ始めた頃、ゴルフ界の球聖ボビー・ジョーンズは30年不滅の四大メジャー大会獲得というグランドスラムの達成を機に、まだ28歳の若さで突然ゴルフ界から引退をしてしまう。
この突然の引退について、その後のジョーンズのコメントの端端から「彼のアマチュア哲学がそうさせた」等、これまで多くの理由が書かれているが、実際の真相は未だに解明されていない。ジャーナリストの中に「ジョーンズのいないゴルフ界は、パリのないフランスと同じである」とその寂しさを伝える者もいた。
同時に経済界は、ウォール街の大暴落から世界大恐慌となり、ニューヨーク・マンハッタンでは高層ビルから飛び降り自殺する者も出た。それから5年後の35年、前年日本にも訪問し、ベースボールの素晴らしさを伝え、22年間もメジャーリーグ界を背負ってきたベーブ・ルースが体力の限界から遂に引退を表明する。
米国はそれまで築いてきた莫大な資本財力だけでなく、民衆をとりこにしてきた二人のスーパースターをほぼ同時期に失う事となった。
そして欧州ではこの経済危機にヒットラー率いるナチス同盟党が勢力をつけ、独裁者による国家戦略の過ちから、世界は第二次大戦という悲惨な渦の中に巻き込まれていく。

戦後第一期モダンコース時代の幕開け。

大恐慌に煽られて、1930年後半からゴルフ場開発がほぼ全面ストップに近い状態が続いた「ゴルフコースの暗黒時代」は、戦後になっても続いた。新設コースの開発がストップされただけでなく、閉鎖するゴルフコースはもちろん、それらは住宅地や高速道路に変貌したりもした。1934年、所謂華麗なるクラッシックコース時代が幕を降ろした年には全米のゴルフコース数は5727を数えた。しかし41年には5209に減り、終戦後の1946年には更に4817コースへと激減していった。
34年の数字とは910もの減少であり、暗黒時代から戦後にかけては、日本だけでなく、米国とてゴルフどころの社会環境ではなかった。
ゴルフクラブを置き、バットとグローブを手にもって、金のかからない草野球を親しんだ人達も多かったと言う。ベースボール界ではベーブ・ルースやルー・ゲーリックの時代が去っても、彼等を引き継ぐジョー・ディマジオやテッド・ウィリアムズ等のスター達が、メジャーリーグの人気を支えていた。しかしゴルフ界はボビー・ジョーンズなき後、国民的スターは生まれず、これが若者達からゴルフというスポーツを離れさせていく大きな原因ともなった。

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byron Nelson

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WOMENS BASEBALL

大戦を挟んでバイロン・ネルソンやベン・ホーガン等のスターが登場し、一時代を築くが、それとて、ゴルフをしない者たちまでも魅了したボビー・ジョーンズのような国民的スターにはなれなかった。地域社会におけるベースボールとゴルフの大きな違いがここにあった。
戦火にあった英国では40~45年までジ・オープンは開催されず、米国でも42~45年の間は、USオープンは自粛された。もちろんベースボールとて、戦争で選手が引き抜かれ、女子プロチームが出現した程だったが…
しかし1950年になると、ゴルフコースの数は4931コースとやや勢力を戻してくる。そして第二次大戦での軍事開発は、逆にゴルフ場開発にとって、活気を及ぼす要因を提供した。 かつてクラッシック時代には、馬やロバを使っての非能率的な造成方法が当たり前であったが、戦後のゴルフ場開発では、ショベルカーやブルドーザーがその主役を演じ、ゴルフコースになるその大地は大きく動かされるようになった。この近代技術の導入によって、コース設計家は思うがままのデザインをその大地の上に描けるようになる。第一期モダンコース時代の幕開けである。

クラッシック時代から戦後までの米国におけるゴルフコース数

年代 コース数
1934 5,727
1941 5,209 (-518)
1946 4,817 (-392)
1950 4,931 (+144)
1955 5,218 (+287)

戦前最後の40年にベン・ホーガンが初めて賞金王に輝いたが、その時の獲得マネー額は$10,655であった。しかし当時の野球界のスター、ヤンキースの至宝ジョー・ディマジオは既に5万ドル以上の年棒を得ていたと言う。スポンサーで成り立つプロゴルフ界と言えども、この差はあまりに開きがあった。しかし50年以降のメディア社会の大きな伸びで、一躍スターダムに伸し上がった男が、ゴルフ界にまた大衆を呼び戻す事となる。
その男とはアーノルド・パーマーである。
パーマーの輝かしい記録に、58,60,62,64年におけるマスターズ4度制覇、60年のUSオープン、そして61,62年のジ・オープン2連覇等が上げられる。

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Palmer&Nicklaus

パーマーが生涯最後の賞金王となった63年には、ツアー獲得額は前人未踏の$128,230に達し、プロゴルフ界では初めての10万ドルプレーヤーの誕生となった。この年のメジャーリーグの最高年棒は、当時東西の人気を二分したニューヨーク・ヤンキース、ミッキー・マントルとサンフランシスコ・ジャイアンツ、ウィリー・メイズの10万ドルであり、パーマーは事実上、獲得賞金額だけでも彼等を上回り、プロスポーツ界の頂点を極めたのだ。誰もがパーマーの成功とカリスマ性に酔い、ゴルフが、再度日常のスポーツとして戻ってくる。そして彼に続き、ジャック・ニクラウスが登場、米国ゴルフ界は彼等二人のスーパースターによって、これまでにないブームを呼び、ゴルフ人口は急激に伸び、ゴルフ場建設ラッシュの時代を迎えるのであった。
ベン・ホーガンの時代を経て、国民的アイドルとなったアーノルド・パーマーやジャック・ニクラウスの登場に至るまで、ゴルフコースの数も55年には5218コース、3年後の58年には5745コースとクラッシック時代の5727の数字を25年振りに塗り替えた。更に60年になるとその数は6385コースと伸び、翌年にはゴルフ人口が初めて500万人の大台を超える事となる。

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Joe Dimaggio

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Mickey Mantle

1950-90年代 ゴルフコース数とゴルフ人口,及びPGA賞金王

年代 コース数 プレーヤー人口 PGA賞金王 獲得賞金額
1951 4,970 3,237,000 L.マングラム $ 26,088
1961 6,623 5,000,000 G.プレーヤー $ 64,450
1963 7,477 6,250,000 A.パーマー $ 128,230
1971 10.494 10,000,000 J.ニクラウス $ 244,490
1981 12,035 15,566,000 T.カイト $ 375,699
1991 14,136 24,800,000 C.ペーヴィン $ 979,439

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ゴルフコースコメンテーター&コースアドバイザー。東京生まれ。
明治大学卒業後、米国留学。
ドン・ロッシーの元でゴルフコースのクラシック理論を学ぶ。
現在まで世界56カ国2300コース以上を視察。
1989年より、米ゴルフマガジン誌世界トップ100コース選考委員会に所属。
1991年から2015年までは同委員会の国際委員長を務める。
「ゴルフコース好奇心」,「ゴルフコース博物誌」「The Confidential Guide 」などの著書もある