この二つのスポーツの起源に繋がりはあるのか。

米国のスポーツ史において、ベースボールは一般大衆のスポーツとして、そしてゴルフは一定の階級層のスポーツとして育まれた。面白いのはゴルフとは違い、大衆の間で早くから流行ったベースボールというスポーツのルーツも英国から渡ってきたという説だ。
ベースボールは、ニューョーク州クーパースタウンにあるベースボールの殿堂にある文献から、ゴルフと関わりある事項を少し引用させて頂き紹介していきたい。但し、ゴルフ同様に、ベースボールもその起源説において明確なるものはない。

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ベースボールのルーツは英国で農家の主婦が余暇の間に遊んでいたストゥールボールかトラップボールという球技がその発祥であろうとの一説を述べた研究家たちがいる。ストゥールボールとは、布を丸めて、それを小枝で打つ椅子穫りゲームで、それがラウンダースという今のベースボールに似たゲームスタイルになり、そして米国へと渡っていった。それはまだ新教徒による開拓への時代であった。後に都会が誕生し、空地で子供たちによってラウンダースは、タウンボールというゲームになり、それがベースボールに進化していったと記述されている。またクーパースタウンの数ある歴史書の中では、米国で古くから行われていたワイナットというゲームがベースボールの起源であるとも書かれている。
場所を中世時代の英国に移しましょう。ストゥールボールやトラップボールが誕生した背景は、ゴルフで家を空け続ける道楽な夫達に対し、不満を抱えた妻達がゴルフに反発して行った遊びではないか?との説がある。つまりベースボールの起源は、当時一般市民にあった男尊女卑の社会性が、そのキッカケを作ったことになる。娯楽が生まれるその共通性にはその時代背景があるものだが、あながちこれらの説は間違いではないかも知れない。
ゴルフの存在が歴史の中で正式に登場してくるのは、1457年国王ジェームス二世の時代にスコットランド議会が騎士道を疎かにし、ゴルフに夢中になる市民に対し、ゴルフ禁止令を発令した事による。ベースボール史家たちの一説によるとストゥールボールは14世紀には既に農家の間で流行り、1450年に教会の庭でこれを遊ぶ市民に対し、当時のサセックスの司祭が禁止した記録がある。トラップボールも同じように14世紀には既に存在していた記録が残されていると言う。
もしこの球技の結びつきを唱えるならば、ゴルフは14世紀には既に存在していたと言う事になる。禁止令が出たと言うことは、既にゴルフが市民の間で長く親しまれていた事に間違いない。
しかしこれらの球技を関連づける説もひとつだけ繋がりを持てない箇所がある。同じ英国でありながら歴史に登場してくるその地域がまつたく異なっているのである。ゴルフはスコットランドからイングランドに広まっていった。これは当時のゴルフクラブの歴史からも解明されている事実だ。しかしストゥールゲームやトラップゲームが歴史に登場してくるのはイングランドであり、その時代にイングランドではゴルフは存在していない。物事をこじつけて結びつけるならば、スウィールボールかトラップボールが、スコットランドのゴルフ社会で発祥し、プレーするに広大な用地を必要としなかった分、ゴルフよりも早くイングランドの農家に伝えられたという説が登場してくる。

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コルフェンもベースボールの起源?

最近では更に楽しいベースボール誕生説が、ゴルフ界から登場してきた。
ベースボールもゴルフ同様に、オランダのヘット・コルフェン(Het Golfen)というスポーツが起源ではないかという説だ。コルフェンは主に氷上のスポーツとして今のゴルフパター又はアイスホッケーのスティックにも似たような用具で氷の穴に球を入れる球技で、氷のはらない春から夏にかけてオランダの牧地や森の中でも盛んに行われていた。そのゲームルールの中には所定の場所から球を棒で打ち、そして所定の場所にボールを運ぶという変型的なルールも存在したらしい。これがトラップボールのルールに似通っている。
その遊び方、勝者の決め方に関しての詳しい資料はないが、ベースボールとゴルフをミックスしたような遊び方であったのかも知れない。
しかしこのコルフェンという球技はいろんな球技の起源に譬えられるようだ。ホッケーやアイスホッケーはもちろん、もしスティックで球を打たず、足で球を蹴り上げていたならばそれこそサッカーの起源にもなってしまう。いずれにせよ人間が余暇の間に楽しんだ球技というのは時空を経て、様々な娯楽に変化していった事は間違いない。

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米国開拓時代にクリケットとゴルフは同じ道を歩んだ。

14世紀初頭からの歴史を誇るクリケットとベースボールの関係がよく登場してくる。クリケットが新大陸に渡り、ベースボールに進化していったという説もあるが、それは初期のプロベースボールプレーヤーに、クリケット経験者が多かった事からである。そして米国にも伝えられたクリケットが、いつのまにか大衆の間で、ベースボールに代わってしまったのは何故だろうか? 米国民の英国からの独立意識からであろうか。それを裏付ける出来事として、初期のベースボールチームの名称も「ヤングアメリカ」「インディペンデント」「リバティ」等、当時の国民の独立精神を仰ぐような名前ばかりであった。又、クリケットに比べ、ベースボールはルールが簡単で、試合時間が短い、クリケットはゴルフ同様に一日かけて行うスポーツであった。観衆の立場からもベースボールはクリケットやゴルフに比べ、スピーディで、しかも理解しやすく、時間を費やさないスポーツであった。
ではスピード感あるサッカー(フットボール)は何故米国で流行らなかったのか? このスポーツも発祥は英国である。やはり彼等の独立精神から消えていってしまったのだろうか。
では本題となる英国発祥のゴルフが、その独立精神の中で、何故今日まで生き延びてきたのだろうか。いやクリケット同様にゴルフもベースボールによって一度は死にかけたスポーツであったのかも知れない。
米国で18世紀半ばに存在したゴルフが、その後約一世紀もの間、米国の歴スポーツ史から姿を消してしまっている事実がある。南北戦争がその主な原因とされているが、当時の大衆層の中で、英国人気質の厳格なルールに縛られるゴルフというスポーツは確かにマッチするはずもなかった。つまりゴルフの復興は、この独立への精神が一段落し、南北戦争後の国家再建、国民に裕福さが芽生え始めた頃になったのは当然の成り行きであった。
ゴルフとは逆に、ベースボールが米国全土に広まったのは、なんとその南北戦争の兵士達によって、彼等が故郷に伝えた事が第一の要因と言われている。その戦場で楽しんで故郷に持ち帰った兵士の中には、黒人兵士達も多かった。まだ奴隷制度があった時代の事、奴隷解放を唱える北軍の黒人兵士達は自らの存在をアピールする為に、ベースボールパークは格好の場となったのかも知れない。米国でゴルフが復興し、現存する最初のゴルフクラブが出来た19世紀後半には、ベースボールはプロとしての組織が既に確立していた。しかも白人社会に入れない黒人達ですら独自のニグロリーグを形成し、それは後に、ベースボールの底辺拡大に大きな役割を持つこととなった。

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報道の価値

spalding-320x510 ゴルフの用具の老舗メーカーでもあるスポルディング社の創設者アルバート・スポルディングは、当時のベースボール界のスーパースターの一人であり、後に球団まで所有し、ベースボールを最初に海外に広めていった人物である。実はこの男が後にベースボールの起源調査委員会を設け、その起源は英国から持ち込まれたラウンダースではなく、米国で生まれたワイナットだと唱えた人物である。又、ベースボールの報道の父、ゲームの勝敗だけでなく、スクラップブックに選手個人の記録を残す事を最初に発案したヘンリー・チャドウィックはラウンダース起源説を唱えていた。このヘンリー・チャドウィックの存在こそが、ベースボールとゴルフの報道の価値観、違いを、数字の魔力によって明確なものとした。彼が大衆の興味を更に煽った打率、打点、防御率などの個人記録の発案は、実はベースボールの勝敗に対して、当時よく行われていた賭博行為を全面的に無くす対策のひとつとして考案されたものだった。彼等の勝敗に賭ける興味を他に移すひとつの手段であった。そしてどの球場も警備網がひかれ、それを行った者は即刻罰則が与えられた。
紳士のスポーツと言われるゴルフでは、英国の時代からプレーする同士が、ホールマッチで賭けあうのは当たり前のお遊びとされていたが・・・
この時代のゴルフ界はもちろん白人社会である。黒人達はプレーすることはおろか、クラブを握るチャンスもクラブハウスに出入りする事も固く禁じられていた。そこには大衆的な娯楽ベースボールとはまったく異なるハイソサイティーな空気を漂わす社会が存在していた。しかし市民の娯楽であったベースボールには強い味方が存在した。チャドウィックをパイオニアにした新聞、後の放送メディア等の報道機関であった。そこにはゲームの勝敗以外にも選手個々の記録が数字の上で争われ、観戦に行けない者までもがその記録、数字という魔力に取りつかれる。そして当時、まだ勝者だけを報道が追い求めたゴルフは、あくまで観戦する者だけがそのプレーの瞬間を楽しめる球技として報道分野で大きな遅れを取ることとなる。報道の力。これこそがベースボールを大衆の中で根付かせた最大の要因である。クリケット、サッカー、ゴルフには大衆を楽しませる記事となる要素がベースボールに比べあまりにも少なかった。ヘンリー・チャドウィックのような記者がゴルフやクリケットにも存在したならば、また違った楽しみ方が存在したのかも知れない。
しかし逆を唱えるならば、ゴルフを楽しむ者にとって一般大衆への報道の遅れは、他のスポーツとの差別意識を芽生えさせ、英国の伝統とルールを守るゴルフソサイティーを偉大なものとして社交の場で躍進させる大きな要因ともなったはずだ。トーナメントが行われたゴルフクラブはゲームの記録を詳細に残し、それらはクラブの歴史として飾られていく。そして後にそれらの結集がUSGAやPGAの組織機構への発展へ繋がったのだ。
19世紀末、初めて全米オープンが行われた時代、新聞がゴルフの記事を載せてもそれは一般庶民には何ら理解も出来ない上層界のスポーツであったに違いない、新聞等の大衆誌では当然ながらベースボールが大きく取り上げられ、ゴルフは片隅に追いやられるのは当然の成り行きであったであろう。同じプロの球技でありながら、趣味の社会と娯楽の社会にはっきりとその報道分野は分かれていたのだ。


masa-nishijima-photo-by-brian-morgan_sq-320x320MASA NISHIJIMA

ゴルフコースコメンテーター&コースアドバイザー。東京生まれ。
明治大学卒業後、米国留学。
ドン・ロッシーの元でゴルフコースのクラシック理論を学ぶ。
現在まで世界56カ国2300コース以上を視察。
1989年より、米ゴルフマガジン誌世界トップ100コース選考委員会に所属。
1991年から2015年までは同委員会の国際委員長を務める。
「ゴルフコース好奇心」,「ゴルフコース博物誌」「The Confidential Guide 」などの著書もある