連載 GOLF Atmosphere No.136 / ハリウッドに消えた幻のゴルフコース

2018年、ロサンゼルスのベネディクト・キャニオン(Benedict Canyon)の33エーカーの山間に、イタリアの高級ブランド「Bulgari」とマリオット・インターナショナルが提携した超高級リゾート、ブルガリ・リゾート・ロサンゼルスの建設が計画されましたが、それに対し、地元住民、環境保護団体、ロサンゼルス市長らが「Save Our Canyon」をスローガンに、野生動物や自然の生態系(保護対象の樹木の伐採)への悪影響を訴え、猛烈な反対運動を展開しました。2023年8月、ロサンゼルス市議会が計画を阻止する動議を可決。市都市計画局が正式に承認を撤回し、このリゾート計画は中止となりました。この報道が全米に流されると、ジョー・パゾーブ(Joe Passov)等、ベテランのゴルフジャーナリスト達は、半世紀前に隣のビバリーヒルズを望むヒギンスキャニオンで起こった「幻と消えたブライベートゴルフクラブ、The Greatest Course Never Built事件」を思い起こします。その事件の渦中に巻き込まれたコース設計家ロバート・トレント・ジョーンズJrもその一人かも知れません。そして当時の真相を更に深く知ろうとジョーンズJrを取材したジョー・パゾーブの記事は衝撃的な内容でした。
その脚本、筋書きは、まさにハリウッド映画そのものだった
1960年代、米国ゴルフ界は、テレビ中継の普及にハリウッドスター並みの人気を誇ったアーノルド・パーマーに続き、帝王ジャック・ニクラウスが台頭し、空前のゴルフブームを迎えました。また毎年200コースを超えるペースで新設コースが誕生した時期でもありました。
そんな時代背景の中、ロスアンゼス、ビバリーヒルズの北、ヒギンスキャニオンで起こった開発計画のプロットは、まさにハリウッド映画のストーリーそのものでした。そのストーリーの主役は、悪徳弁護士、マフィアの資金、買収された政治家たち、ロサンゼルスのナイトクラブ、そして伝説的なエンターテイナーたちで構成されました。これらすべては、スタッグフレーションを引き起こすキッカケともなったベトナム戦争とロバート・F・ケネディの暗殺に至る社会情勢の中、ロサンゼルスで最も高級な超一等地という背景の中で起こった出来事でした。
ここからジョー・パゾーブの記事をベースにお話するのは、建設されることのなかったゴルフコース「ビバリーヒルズ・カントリークラブ(Beverly Hills Country Club)」の物語です。
The Greatest Course Never Built
マイケル・グロス著の『Unreal Estate: Money, Ambition and the Lust for Land in Los Angeles(架空の不動産:ロサンゼルスにおける金、野望、土地への渇望)』で語られているように、このカントリークラブはビバリーヒルズの北に位置するヒギンズ・キャニオンと呼ばれる荒涼とした未開発の地塊に建設される予定でした。その険しい地形は長年にわたり開発を拒んできましたが、戦後、ゴルフコースの造成にも重機がフルに活用されるなど、土木技術が進歩したことで、いかなる荒地でもゴルフ場が誕生し始めた時代でした。その事から開発のプロモーションが始まると、全米のセレブリティなゴルファー達から強い関心を抱かれるようになります。
まずこの開発計画に目を向けたのが、Jimmy Hoffa(ジミー・ホッファ)とSidney Korshak(シドニー・コーシャック)という二人の人物でした。ホッファはシカゴに本拠を置く労働組合、国際チームスターズ全米トラック運転手組合の会長でした。この組合は1903年に発足し、トラック、タクシーのドライバーを中心に、最盛期には運輸、商業、倉庫などの労働者も含む約130万人もの全米最大手労組となりました。しかし1920年代半ばは*禁酒法が制定された時代で、組合組織とは名ばかりで裏ではトラック運転手たちが密造酒を運送し、アル・カポネのマフィア組織との繋がりを持っていた事が指摘されていました。チームスターズの年金基金は事実上銀行と化し、組合の幹部やマフィアたちは、表向きは合法的なビジネスへの投資や融資という形でその資金を分配していたようです。
(*米国における禁酒法は1920~1933年まで合衆国憲法修正第18条下において施行され、消費の為のアルコール製造、販売、輸送が全面的に禁止とされた。)
一方、犯罪組織のボスであり、ラスベガスのホテルオーナーでもあった「バグジー」ことベンジャミン・シーゲルの弁護士を務めていたコーシャックは、裏社会と表社会の仲介役として1945年にロサンゼルスへ移ります。そして彼の元に飛び込んできたプロジェクトの中に、ヒギンズ・キャニオンとビバリーヒルズ・カントリークラブの開発がありました。ワシントンD.C.のフィクサーであるアーヴィング・デヴィッドソンと、ホッファの仲間でフロリダのプロモーターであるハイマン・グリーンがコーシャックの取り組みに加わり、グループが形成されていきます。かつてカポネ時代、シカゴで裏のブックメーカーをしていたLAのビジネスマン、マニー・ライスと、地元の外科医ビクター・G・ランズ医師は、隣接するトゥルースデール・エステートの住民同士で、二人は1962年4月にヒギンズ・キャニオンの155エーカーの土地を購入します。
当時、戦前に起こった禁酒法時代の事件からもロサンゼルスにおけるチームスターズの影響力は米国司法省の監視下に置かれていました。しかし組合の裏社会の勢いはとどまることを知らなかった。1963年6月、ヒギンズ・キャニオンに通じる唯一の道路であるビバリー・ドライブの北端に、プライベート・ゴルフコースと13階建てのコンド6棟を建設する申請書が提出され、翌年、元連邦検事補からフロリダの不動産投機家に転身したレナード・バーステンがそこに参入します。バーステンは、ヒギンズ・キャニオンを分譲するために「ビバリー・リッジ・エステート社」を設立し、チームスターズの年金基金から400万ドル近い融資を受けて資金を調達しました。その一方で、バーステンとグリーンは別の取引をめぐって互いを訴え合っており、ホッファも年金基金に対する詐欺罪で有罪判決を受けました。ほどなくして、コンドの計画は、ゴルフコースを囲む高額な一戸建て住宅へと変更されます。そしてチームに加わったのが、ゴルフコース設計家のロバート・トレント・ジョーンズSrと、ランズ医師の患者だった歌手で映画スターのディーン・マーティン(Dean Martin)でした。

*白枠が開発予定地だった場所。 左のゴルフ場はBel-Air CC, 中央下はLA CCになります。
さらに、『Motor Trend』『Teen』『Hot Rod』などの雑誌の発行者であるロバート・E・ピーターセンが、クラブの初代会長に指名されました。父親の助手を務めていたロバート・トレント・ジョーンズJrは、当時のことをこう振り返ります。 「ワイルドで、クレイジーな時代だったと思います。父はこのプロジェクトに興奮していました。父はドラマ(劇的な展開)が好きだったが、これはまさにドラマだった。LAのヨーティ市長も市議会も深く関わっていたし、我々はそこに信頼を置いていました。バーステンは父やヨーティ市長をナイトクラブで接待した事もありました。これらすべてが、ベトナム戦争の真っただ中に、世界で最も高価なゴルフコースを建設するという文脈の中で進行していったのです。」
ビバリーヒルズ・カントリークラブがアメリカで最も偉大なコースになるかどうかは別として、最も高額なプライベートコースになる運命にはありました。1967年4月26日付の『ロサンゼルス・タイムズ』紙の記事は、開発費を1,500万ドル(当時のロバート・トレント・ジョーンズのプロジェクトの平均の約10倍)と報じています。ジョーンズ・ジュニアは同記事の中で「ゴルフコース造成には信じられないような場所でした。プロジェクトの規模の大きさそのものに、私たちは非常に興奮している」と述べていました。ハリウッドの面々やロサンゼルスの富裕層にとっては、まさに理想的なロケーションだった。
ディーン・マーティンは1968年の初め、入会見込みのある友人や関係者に向け、「ゴルフ狂のイタリア系ストリート歌手がカントリークラブの会長になる一番の方法は、自分でクラブを始めることさ。最初の9ホールは今、ビバリーヒルズの中心からわずか5分、僕の家の目と鼻の先にある。美しい高級住宅地に相応しい山に囲まれたエリアで、今、ブルドーザーの4人組(フォーサム)によって造成されているところだよ。」と、ジョークを交えた内容の手紙を送っていました。彼も真実を読み取れずにいた男の一人でした。
しかし峡谷にコースを建設することは大きな困難を伴い、コストは跳ね上がっていきます。ジョーンズ親子は、谷底を400フィート(約120m)かさ上げするために、尾根の山頂部を削り、推定765万立米もの土砂を移動させなければならなかった。ジョーンズSrが設計したパー70のレイアウトは、2。チャンピオンズティから7,000ヤード、レギュラーティから6,245ヤード、フロントティから5,885ヤードでした。否定できない事実として、地形の高低差の中、このレイアウト構想は、グレートコースと呼ばれるには少々窮屈すぎました。パー3の距離(190、205、210、205ヤード)に違いを持たせていない為、スクラッチゴルファー達からの意見は厳しいものでした。しかし、このパー3はある意味でジョーンズSrのユニークなアイデアが描かれていました。ジョーンズSrは「22ホール」のゴルフコースを設計していました。それはPAR3ホールでの煩わしいプレー進行を避けるため、4つのPAR3(3番、8番、14番、17番)の横に、それぞれ別のティとグリーンを設ける計22ホール構想を考案したのでした。ジョーンズSrはすでにニューヨークロングアイランドのパブリック施設、アイゼンハワー・パークゴルフコース(設立White Course 1950年, Blue Course 1951年)に取り入れて成功を収めていました。下記の図の白枠箇所をご覧ください。PAR3が2ホール構成になっているのがおわかりになるでしょう。

*Eisenhower Park Golf Course 上 White Course 下 Blue Course 白枠がPAR3の2ホール構成。

*Robert Trent Jones Jr(左) Robert Trent Jones Sr(右)
1968年6月7日号の『LIFE』誌は設計に関わるジョーンズ親子を特集し、トラックが峡谷を通り抜けて土砂を運ぶ、進行中の建設工事現場の写真を掲載しました。
しかし計画から僅か1年の間に、建設の見積もり額は2,500万ドルにまで跳ね上がり、入会金は$ 25,000ドルに設定されました。当時のメジャーリーガーのスーパースター、ウィリーメイズやミッキー・マントルの年棒が12万5千ドルだった時代の入会金2万5千ドルは明らかに異常な額です。
大掛かりな工事に起こる環境への懸念は、バーステン氏等による市計画委員会の影響力によって揉み消されました。
「彼らは市議会とヨーティ市長の弱みを握っていた。」とジョーンズJrは語ります。
「チームスターズ組合がトラックを走らせたくないと思えば、いつでもストップさせられます。市の検査官たちが敷地内に車で入ってきた時、彼らが帰ろうとすると、チームスターズが出口のスロープに大きなブルドーザーを置き、それがいかにも故障したかのように見せ、道を塞ぎました。検査官たちは何時間もそこに留まる羽目になり、そこで何を要求されたのか、知る余地もありません。」
チームスターズの影響力、そして環境問題が渦巻く中で、最終的にコースの工事をストップさせたのは、激怒した近隣住民の会と、膨らみ続けるコストに難色を示した組合でした。これは開発業者がクラブハウスへの新しい4車線道路を求めていたことが明るみに出て抗議デモが起こりました。胡散臭さを感じながらも決定打を放せなかったメディアは一斉に開発関係者に向けて集中砲火を始めます。
彼らはビバリーヒルズ一帯からのアクセスのためだけでなく、そもそも谷を埋めるためだけに765万立米の土砂を必要としており、LA市議会を説得して山頂から尾根を切り崩せる許認可を得ましたが、4車線道路を建設させれば、その土砂の残土をタダで手に入れられ、プロジェクトの計画に活用出来ると考えました。
開発業者のために根回しをしていたジェームズ・B・ポッターJr市議会議員は、やがて利益相反と公務員への贈賄の疑いで捜査を受けることになります。
これらはすべてが、バーステンの企でした。バーステンは組合のバックアップを盾に、自分のやりたいようにやり、発生する諸問題は後回しにしました。法律や許可証は、バーステンにとって克服すべき単なる「厄介事」にすぎなかったのです。
最終的にバーステンは、ビバリーヒルズ・カントリークラブに関わった他のほぼ全員と同じように、破滅の道を辿ります。
1968年の末、チームスターズの中部諸州年金基金は、利息も元本も支払われていないとして、彼とその仲間を提訴した。彼は後に脱税で有罪判決を受け、弁護士資格を剥奪されます。
それでも当時深く知らされていなかったジョーンズ親子は、彼に対して常に特別な思いを抱いていました。ジョーンズJrは当時を振り返り語ります。「レナード・バーステンは、マイアミの資金とチームスターズ組合の資金を持っていたため、民主党と非常に強い政治的つながりがありました。当時、組合は民主党を支持していた。私はロバート・ケネディの大統領選を応援していました。バーステンは、理想に燃える28歳の私を選挙人に登録できるよう手助けしてくれた。私は6月5日、まさにケネディがロサンゼルスで撃たれたその日に皮肉にも選挙人に選出されました。当時私の希望を打ちのめしたのはビバリーヒルズ・カントリークラブを失ったことではなく、ロバート・ケネディが暗殺されたあの夜でした。」
ジョーンズJrは8月下旬、暴動に揺れるシカゴの民主党大会に出席し、1968年の猛暑の夏に、2つの夢が潰えるのを確認したのでした。
ジョーンズSrと、当時彼を補佐していた息子のジョーンズJrは、この破格のプロジェクトの設計者として雇われただけで、彼らの名誉を守るために申しますが、マフィアの関係者だった人物が裏でマネーロンダリングに絡んでいた事実はわかっていなかったようです。ジョーンズJrは潔白な立場からすべてを隠さず語れるのもそれが証明しています。ジョーンズSr自身はあくまで世界最高峰のコースを設計する」という純粋な野心からこの依頼を引き受けたに過ぎません。
それではこのThe Greatest Course Never Built事件の経緯を改めて纏めてみましょう。
幻のビバリーヒルズ・カントリークラブ(Beverly Hills Country Club)は、アメリカのゴルフ・不動産業界や建築ファンの間で、「歴史上、最も偉大で華麗な未完のゴルフコース(The Greatest Course Never Built)」として語り継がれている1960年代の巨大プロジェクトでした。
ハリウッドの欲望、マフィアの資金、政治のスキャンダル、そして不運が重なり、最終的に一度もオープンすることなく幻となりました。その全貌と、未完に終わった理由は以下の通りです。
1.どのようなプロジェクトだったのか?
舞台はロサンゼルスの超一等地、ビバリーヒルズの裏手に広がる広大な山岳地帯が対象とされました。
世界最高峰のゴルフコース案。ゴルフコース設計界の巨匠やトッププロが関わり、当時として最高峰の難易度と美しさを誇るチャンピオンシップ・コースが計画されていました。
超豪華な会員制クラブは、ハリウッドの超大物セレブや政治家、富豪だけを対象としました。完全にプライベートでラグジュアリーなカントリークラブを目指していました。
2.何故完成に至らなかったのか?
このプロジェクトの背景には、映画の脚本かのような複雑なドロ沼劇がありました。
A.不透明な資金源とマフィアの影
プロジェクトを主導していた開発グループの裏に、国際的な資金洗浄(マネーロンダリング)や、当時アメリカを震撼させていた組織犯罪(マフィア・グラウンド)のネットワークが絡んでいるという疑惑が浮上しました。これにより、初期段階から当局による厳しい目が向けられることになります。
B.政治家への贈収賄スキャンダル
広大な山林をゴルフ場や高級住宅地へと開発するためには、ロサンゼルス市からの厳しい「土地の用途変更(ゾーニング)許可」が必要でした。開発業者たちはこれを有利に進めるため、市議会議員や政治家に巨額の賄賂を贈っていたことが発覚。これが大スキャンダルとなり、開発の法的認可が完全にストップしてしまいました。
C.泥沼の法的破産とベトナム戦争期の不況
スキャンダルによって金融機関からの資金融資がストップし、開発会社はまもなく泥沼の法的破産へと追い込まれました。さらに時代はベトナム戦争の最中で経済的にも先行きが不透明になり、誰もこのいわく付きの巨大プロジェクトを引き継ごうとしなくなりました。
その後、この計画用地はどうなったのでしょうか。
造成のために一部の土地が削られたものの、クラブハウスやコースが完成することはありませんでした。その後、計画されていた土地は細分化され、別の開発業者らによって超高級住宅(メガ・マンション)の敷地や自然保護区へと姿を変えていきました。
結果として、重機による大規模な土砂移動まで行われていたビバリーヒルズ・カントリークラブは、一度も開場することなく幻のコースとなりました。まさに「ハリウッドの光と影」を象徴するようなアメリカゴルフ史に残る最大の未完のミステリーゴルフコースです。
Text by Masa Nishijima & Joe Passov.
Photo by Shutterstock, The Los Angels Public Library,
Map of Eisenhower Golf Course by Google Earth Pro
「Unreal Estate Money, Ambition and the Lust for Land in Los Angeles 」by Michael Gross