Shinnecock Hills GCOakmont CCと並び、オープン開催のコースで最も難関なコース。

 

2026年度全米オープンはニューヨーク州ロングアイランドの名門シネコックヒルズ

GCで開催されます。ここでの前大会は2018年で、その前の2004年度開催から14年間を経ての開催でした。当時の全米オープンはクラシックの名門を中心にほぼ8年周期のローテーションで開催を迎えていましたが、2004年は夏の雨量が少なく、グリーンもブラウン色に乾き、ファイナルラウンドは史上最悪のコンディションと酷評される中で行われました。そんな中、南アのレティーフ・グーセンが-4アンダーで見事栄冠を手にしました。予選ラウンドをミケルソンと共にトップ通過した丸山茂樹でしたが、健闘空しく+4オーバー4位タイでした。大会終了後、メンバー達はコース回復工事の為に夏場は満足にプレー出来ず、オープンを辞退した名門バルタスロールGC同様にシネコックヒルズも次の大会を辞退するのではないか?との噂が出たほどでした。しかしそこはザ・カントリークラブ・ブルックライン、ニューポートCC、セントアンドリューズGC、シカゴGCと共にUSGAを立ち上げた米国5大コースの一門として辞退を避ける事はクラブのプライドが許しませんでした。開催を決定した後の2013年にBill Coore & Ben Crenshawのコンビによって、グリーンをオリジナルに戻そうと平均20%拡大、そのコンプレックスの改良を基本に、150あるバンカーの修復など大規模にレストレーションが行われました。そして6,996ヤードだった全長は7,440ヤードに拡張されました。しかしコンディションは良かれ、勝利を手にしたブルックス・ケプカのスコアは+1オーバーとコース難度を更に高める結果となりました。今回もコースの全長は前回とほぼ同じです。果たしてどのような結果になるのでしょうか。

 

 

英国からのプロゴルファー達がコース設計を任された時代。

ここからシネコックヒルズGCの歴史について触れていきましょう。

18世紀、サウスカロライナに伝えられたゴルフコースの歴史は、南北戦争で一度すべてが消え、米国史に再び登場するのは19世紀中頃を過ぎてからの事でした。北米ではカナダのロイヤル・モントリオール(1873年設立)を筆頭に、現存する全米最古のゴルフコース、オークハーストリンクス(1884年)、ニューヨーク州のクォーグフィールドGC(1887年), セント・アンドリューズ(1888年)、そして次に登場するのが1891年設立のシネコックヒルズGC(1891)です。当時、マンハッタンの喧騒を逃れた富裕層達が避暑地としたロングアイランドの東部では、ビーチ、テニス、狩猟、ヨットのクルージングなどのアクティビティクラブがありました。だがゴルフはまだ伝来していなかったのです。当時の米国は本場英国のゴルフプロ達を招聘し、メンバー達への技術指導はもちろん、彼らが育った本場のリンクスや芝草への見識をグリーンキーパーとしても活用することがトレンドとなっていました。プロゴルファーとグリーンキーパーの二刀流にそこに用具としてのクラブ職人達の技術が加わり、彼らの権利として「プロショップ」の誕生へと繋がります。用品開発によってゴルフ界は大きな発展を遂げてきましたが、そのスタートとなったのはプロゴルファー達が、所属クラブのメンバー達に用品の物流を担った事が始まりでした。更に彼らはゴルフコースの設計及び管理にも関与していきます。

南北戦争後の北米で、カナダは米国より一足早くゴルフクラブを誕生させます。それが前項でご紹介した1873年設立のロイヤル・モントリオールGCです。1881年、彼らは英国の名門ロイヤル・リバプールからWillie Davis(1861-1902)というプロゴルファー兼クラブ職人を招聘し、メンバーへの技術指導と共にグリーンキーパーとしての役職を任せます。当時弱冠二十歳の青年Willie Davisは英国から北米に渡った最初のプロゴルファー兼クラブ職人でした。そして22歳の時に生涯のパートナーとなる愛妻Maryと結婚をします。スコットランドの寒村ドーノッホ(Dornoch)出身のプロ兼グリーンキーパーとして、後にコース設計でアメリカンドリームを成し遂げた巨匠Donald Rossより18年も前に渡米した人物です。

*Willie Davis

 

1884年クラブはビクトリア女王からロイヤルの称号を授与され、正式にロイヤル・モントリオールGCとなります。しかしグリーンキーパーとしての立場のDavisにとって、ロイヤルの称号は強いプレッシャーにもなったのでしょうか、翌1885年、彼はカナダを離れ、プロゴルファーとして米国に渡ります。

そしてシネコックヒルズGCの歴史にはこのWillie Davisという人物が、1890年サウザンプトンのシネコック族の保留地にいたネイティブアメリカン達を従え、シネコックヒルズ最初の12ホールを造成したとクラブ史には記載されています。しかし当時の記録は設立に関わったクラブ関係者たちが晩年になって、雑誌、新聞などで回想録として述べたものが多く、どの記述も一貫性がなく、シネコックヒルズは、ゴルフ史家たちにとって、調べ上げるに相応しい題材となるビクトリアン朝時代からのゴルフクラブでした。その中で、シネコックヒルズは開設当初は12ホールではなく、Davisによる9ホールコースだった説が、1891年に発行されたニューヨークヘラルド誌から発見されます。それを証明したレイアウト図が以下のものです。

 

*9ホールコースのレイアウト図。コースの最南端、図の一番左側の丘の上に記されているのが風車(下の絵では右端)で、これは現在も大学の敷地内に保存されています。Willie Davisは当初その風車の下にクラブハウスを建設し、5番ティを1番のスタートホールにするアイデアを持っていたようです。それは現在のクラブハウスの周辺がシネコック族の神聖な儀式を行う埋葬地でもあったからです。それを象徴しているのがヘラルド誌の女性ライターが描いた下の絵です。

 

 

現在のシネコックヒルズの敷地はロングアイランド鉄道路線の北にありますが、開設時は路線の南側に3ホールがレイアウトされていました。現在のニューヨーク州立大Stony Brook Southampton校の研究センター及びスポーツコンプレックスがある場所がコースの一部だったようです。

しかし何故ここの土地から歴史がスタートしたのでしょうか。その理由を探るとすぐに出てくる説は、先住民族たるシネコック族の神聖な儀式と埋葬塚がこの北側にあったからです。それは現在のクラブハウス周辺に点在していたようです。Davis等が造成作業員にシネコック族の若者を雇用した理由も彼らと災いを起こさない為の工作だったのかも知れません。9コースのヤーデージは、1番から258、187、395、275、412、297、265、228、242の計2,559ヤードのコースで、12ホールに拡張した際、レイアウト案に協力した人物に、シネコックヒルズGCに所属していたジョン・カスバートというプ人物の名も登場してきます。

12ホールに拡張した際、女性用の9ホールコースも用地の一番北側に設計しました。下の図は9ホールから12ホールに拡張した際のレイアウトです。Davisはかつての9番ホールをカスバートの提案を用いて新しいルートを描き、それを12番に設定し、旧9番の用地にレディースコースの9番ホールを配置しました。図の赤線がそれです。

 

*9ホールから12ホールへのレイアウトの変化 緑はレディース9ホールコース

 

1891年クラブ設立したシネコックヒルズとフランスの名コースの繋がり。

欧州大陸最古のゴルフクラブ、フランスのPau GCを設計した名手Willie Dunn Srの息子Willie Dunn Jr(1864-1952)も同じプロゴルファー兼クラブ技師として名声を持ち、1888年フランスのビアリッツGC(Golf de Biarritz le Phare)を兄Tom Dunnと共に設計しました。Willie Dunn Jrはロンドン郊外ブラックヒースで生まれ、後に名門Royal North Devon GC(通称 Westward Ho! )の所属プロとなります。冬季期間は造成したビアリッツでセレブ相手にゴルフ指導を行っていましたが、そこに米国から鉄道や海運で大富豪の地位を成したヴァンダービルト家のウィリアム・ヴァンダービルトが友人のダンカン・クライダー、エドワード・ミードと共にフランスのビアリッツへ休暇に出かけ、「The Royal Game of Golf」と称されたゴルフに初めて出会い、その楽しさをニューヨーク・ロングアイランドの財界人たちに伝え、ゴルフコース建設を促します。シネコックヒルズはそんな環境化の中で誕生したクラブでした。

ヴァンダービルト達はビアリッツでWillie Dunn Jrからスウィング指導を受ける中、Dunn兄弟が自慢とする有名なビスケー湾越えの名物PAR3ホールChasm Holeで、Dunn Jrは自らの技術を披露すると共に、自身がクラブ開発したドライバー等を紹介したりしました。少しでも上手くなりたい彼らは、このホールでグリーンを正確に捉えるDunn Jrの技術以上にその手作りのクラブに関心を持ち購入したことでしょう。

 

 

*Golf dev Biarritz #3 PAR3 Chasm Hole.  米国ゴルフ界の父C.B.Macdonaldがクラシック設計のテンプレートホールとして紹介したBiarritz HoleのプロトタイプがこのChasm Holeである。

ゴルフにすっかり夢中になった3人は、度々ビアリッツを訪問し、Dunn Jrからの指導を仰ぎます。そして優れた技術はもちろん、クラブ開発、更にはコース設計まで手がけるDunn Jrを米国に招き、シネコックヒルズの18ホール計画、更には近郊のMaidstone Club, ロードアイランドのNewport CCの設計にも関与させます。

1893年、Willie Dunn Jrは大西洋を渡り、ニューヨーク・ロングアイランドにやってきます。そして当時僅か80エーカーしかないシネコックヒルズの用地にあるDavis設計の12ホールに、距離の短い6ホールを加えるかのように18ホールをレイアウトします。それが下の図になります。(PS.図の上はDavis設計のレディースコースです。)

 

*Willie Dunn Jr

 

18ホールの全長は僅か4347ヤードのコースでした。完成から翌年の1896年、全米オープンが開催され、全長4423ヤードで行われました。しかしヤーデージの短さから当然好スコアが続出、クラブ側はコースの延長を図る為に北側の土地を求め動き始めます。尚、9ホール時代からコースの南側を走るロングアイランド鉄道をまたぐかのように4ホールがレイアウトされていた為、これはあまりに危険過ぎると保険の対象にもならず、鉄道会社とは打球事故があった場合の賠償額が定められていたとの話もあったようです。

 

*18ホールになってからの写真。なんと#6番ホールのティインググランドは線路脇にあった。

 

当時、本場のリンクスで育ったプロゴルファーのDavis等の設計における基本的概念は、バンカーを戦争で例えるならば敵地の陣地を囲む堀や要塞に見たてる事でした。従って自然の景観とはマッチしない人工的なペナルハザードが幾つも点在したのです。欧米の古き名門コースに行くとティから僅か80~150ヤード地点にFWを斜めに横切るようなバンカーをよく見かけます。これをデザイン性に取り入れたコース設計家たちは、ティショットの正しい方向を示すためのターゲットライン上に配置したバンカーだと説明します。しかしその始まりは実は19世紀、リンクスから内陸にコースが誕生する所謂ビクトリア調時代におけるゴルフプレーのあり方によるものだったのです。当時はまだ弾道が低く、グリーンへもクッションをもってバンプアンドランするのが当たり前だった。そんな時代、トップやチョロのミスショットに罰を与えるためにこれらのバンカーを配置しました。まさにキャリーハザードでした。
DavisやDunn Jrが設計に関わった初期のシネコックヒルズやニューポートCCにはティから僅かの距離のところにまるで要塞を守る堀のような人工的な土手を持ったバンカーがありました。つまりゴルファーはその高さを超える球を打たないとなりません。これらは「Cop Bunker」と呼ばれ、一つのホールに2つのCopがフェアウェイを横切るようなホールもありました。シネコックヒルズには当時はBastion Bunkerと要塞の名称がついたバンカーも存在し、それは捕まったらどう脱出したのだろうか?と考えさせられる形状のものでした。

 

*初期のシネコックヒルズでは、#3,#4番ホールに存在したCop Bunker

*Davisが発案したジグザクな形状の「Bastion Bunker」。9ホールコース時代の5番ホールからDunn Jrの18ホールコース時代まで存在していたらしい。まさに砦を型取ったデザインです。

 

プロショップはWillie Dunn Jrの工房だった。

米国最古のプロショップは1887年設立のフォックスバーグGCと言われています。1891年設立のシネコックヒルズはそれより僅かに遅く、所属プロがプロショップを運営していましたが、1893Willie Dunn Jrが所属するとプロショップは彼のクラブ工房ともなります。
Dunn Jrはここでクラブ開発の基盤を築き、彼が開発したドライバーやアイアンには「Dunn Selected」と刻印され、品質を証明しました。一部のアイアンには、新天地アメリカを意識した小さな鷲のマークが刻まれていました。さてこの工房の前では地元のネイティブアメリカンの青年達がキャディとして待機していました。また彼らの仕事はキャディ以外にスカンクを追い払う事も日課になっていたようです。打球が間違ってスカンクを直撃した時など、しばらくはゴルフを中断するほどの悪臭が蔓延したと記述に残されています。

*Willie Dunn Workshopとネイティブアメリカンの少年キャディ達。

 

1911年隣接する湾へと繋がる大地にC.B.Macdonald設計のナショナルゴルフリンクスオブアメリカ(*NGLA)がグランドオープンし、当時対比すればシネコックヒルズのコースは比べものにならないほど劣っていました。

C.B.Macdonald(1855-1939)を改めて紹介します。彼はシカゴの富豪の家で生まれ育ち、セント・アンドリューズ大に留学し、そこで球聖Old Tom Morrisからゴルフを学び、数多くのリンクスコースをプレーしては設計の知識も学んでいきます。米国へ帰国した後は証券ブローカーとなり、1892年に全米初の18ホールコース、シカゴGCを設立、自らが設計に関与します。1900年にニューヨークへ移転後、ウォール街でも成功を収め、70人のファンダーメンバーの協力をもとにNGLAを設立します。

彼は初代全米アマのチャンピオンであり、後にUSGA初代副会長を歴任します。Redan, Eden, Punchbowl, Road, Plateauなど、英国の名コースの攻略理論をクラシックコース設計のTemplate Holeとして定義づけ、米国ゴルフコース界の父と崇められた人物です。

シネコックヒルズGCNGLAを設計したMacdonaldと彼のパートナーであるSeth Raynorに改造を依頼し、ペナルタイプだったコースを近代化した戦略性あるコースへと進化させようと試みます。
1915年までに、コースは隣のナショナルと同様に6,100ヤード以上に拡張されましたが、コースがロングアイランド鉄道の線路を4回も横切る構造になっており、これがクラブと鉄道会社との間で問題となっていました。そこでシネコックは、現在の敷地の北西にある50エーカーの土地を追加で購入し、Willie Dunn Jrの旧ホール5つを残しつつ、MacdonaldRyanor13の新しいホールを建設してもらいました。

* C.B.Macdonald(1855-1939)がシネコックヒルズに最初に提出した18ホールのレイアウト図面。 この時はDunn Jrの18ホールに自身が理想と描くリンクスの攻略理論をテーマにした戦略性を加えたものだった。

*北側の用地を購入できた事をキッカケに、ロングアイランド鉄道を跨いで南側にレイアウトされていたホールはすべて無くなり、C.B Macdonald/Seth Raynorによる新しい18ホールが完成されました。ここにはNGLAと同様に、Short, Redan, BiarritzなどMacdonaldのテンプレートホールで構成されていました。

 

しかし、Macdonald & Raynorのコースは15年も存続しませんでした。その理由は、ロングアイランド鉄道のすぐ上に新しい幹線道路(サンライズ・ハイウェイ)が建設される事になり、このままいけばゴルフコースは分断され、南側の9ホールが影響を受けることになったからです。1927年、シネコック・ヒルズGCで、最も影響力を持っていた役員メンバーのルシアン・ティングが、クラブハウスの北東にある108エーカーの土地(現在の4番~6番、14番~17番ホールがある場所)を購入、そこに新たなホールを造成する事が決まりました。クラブ側はMacdonaldが造成パートナーだったSeth Raynorの突然の死により、設計の仕事からセミリタイアしていた為、フィラデルフィアをベースに、ランカスターCC, チェリー・ヒルズCC、キタンセット、カスケーズ、ローリンググリーンGCなどの設計、及び名門Pine Valley GCMerion GCの設計アドバイザーの一人として名声を得ていた名匠William Flynnに設計を依頼する事にしました。
その選択がシネコックヒルズを隣接するNGLAを遥かに凌ぐ完璧たる名コースに生まれ変わらすキッカケとなるのです。
造成工事は1928年に開始され、初期の建設時同様に150人のネイティブアメリカンが雇わられたそうです。そしてFlynnの手による新しいシネコック・ヒルズは1931年に誕生します。
FlynnはMacdonaldのホール攻略理論を継承し、コースのルーティング、レイアウトは変えども、5ホール、6つのグリーンはMacdonaldのオリジナルのまま残しました。そのホールが現在の#1,2,3,7,8,9番のホールです。

ではこのシネコック・ヒルズが、今日に至るまでFlynnの最高傑作であり続けるその理由を説明しましょう。

 

風を考慮した18ホールのルーティングとレイアウトの構成

*William Flynn(1890-1944)

*Willian Flynnの完璧たるルーティングの18ホール。完成当時はアウトとインが逆だった。

 

上記の図はFlynnがクラブ側に提出した18ホールのレイアウト図で、完成当時、今とはアウトとインが逆でした。トータル260エーカーの広大な用地を得て、彼はそのスケールと土地の高低差を見事に活かしたルーティング(18ホールの流れ)を描きました。それらは大半のホールが左右どちらかにドッグレッグしている為、ゴルファーは一打ごとに風を計算に入れなければなりません。ホールが連続して同じ方向に向かっているのは2,3番ホール(11,12)11,12( 2,3)だけです。

 

*Macdonald時代からのRedan Holeは16番ホール(現7番)としてそのまま残され、 今も最難関のPAR3ホールとなっている。

次に特筆すべき点として、Flynn18ホールのルーティングの中で、数ホールにおけるトライアングルなループを3つ構成しました。まず1~4番ホール( 10~13) 次に5,6,7番ホール(現 14,15,16番)、そして14~16番ホール( 5~7)です。これによって風の効力を多角的に活用できることになります。そして2つあるPAR57番と14番ホール(現 16番と5)は、それぞれに方向が真逆にレイアウトされています。通常、ダブルドッグレッグホールの7(現 16番)はアップスロープの中、向かい風に立ち向かい、14(現 5番)は追い風のサポートを受ける事を意図して設計されました。
通常追い風となるホールは距離が長く設定されているものの、グリーンの手前が開けて、プレーヤーがバンプ・アンド・ランでグリーンに乗せられるように設計し、向かい風となるホールは距離を短く設定し、その分グリーン周りはタイトに絞られています。Macdonaldにより本場のリンクスを理想としたその時代、Flynnのルーティングプランは、プレーヤーサイドから捉えるコースの攻略理論から設計家が唱えるコースの戦略性に趣が移行するキッカケとなります。

プロゴルファー達によって生まれた人工的障害物なるハザードを用いたペナルコースから、MacdonaldRaynorによるTemplate Holeの攻略理論をテーマにした幾何学的デザインの戦略的コース、そしてFlynnは、戦略的にプレーさせる点ではマクドナルドと共通していましたが、その戦略性を自然の大地に沿ったルーティングプランによって活かすことを実現しました。既存の起伏をそのままグリーンの位置に利用し、自然の輪郭に溶け込むようにバンカーを造成し、等高線を縫うようにフェアウェイを描き、その土地ならではのユニークなホールデザインを生み出していました。彼は自らを「Nature Faker(自然の模倣者)」と呼び、そのニックネームは、現代のコース研究家たちによって、彼の伝記のタイトルとなりました。

 

 

 

 

Text by Masa Nishijima,

Data & Map by Tony Dear, Ron Whitten, George Bahto”The Evangelist of Golf”,GCA. Shinnecock Hills GC, Harper’s Weekly Magazine, NY Herald, David Moriarty “The Origins of Golf in the Shinnecock Hills, A Confused History,”

Photo by Masa Nishijima, William Flynn Society, The Evangelist of Golf, Society of Golf Historian, Shinnecock Hills GC.