1933年に完成されたオーガスタナショナルは、翌1934年にボビー・ジョーンズ主催のAugusta National Invitation Tournamentが開催されます。1939年にクリフォード・ロバーツの提案でゴルファーの名士たちが集う大会であることからThe Mastersと名称されます。戦時中の3年間(1943-45)を除き、マスターズ大会も今回で88回目を迎えることになります。

グリーンジャケットを手にしたマスターズチャンピオンが集うチャンピオンズディナーは本戦2日前に開催され、前年の覇者が主催となってメニューを決めるのが恒例となっています。昨年のグリーンジャケット覇者はジョン・ラームですから、メニューをご覧になっておわかりのようにラームの故郷スペインのバスク地方の食材を使った料理が振る舞われるようです。

バスク地方とはスペインだけでなくフランスのピレネー県まで含めることから郷土料理のグルメ文化はスペイン一とも称されています。

 

 

 

皆様たちもよくご存知の世界中のグルメたちがバール(BAR)に集う街サン・セバスチャンはバスク地方で最も人気のある港町で、バールをはしごしてはその店の名物なるタパス(小皿料理)とピンチョス(串で刺したつまみ料理)を愉しみます。

それがサン・セバスチャンの夜の過ごし方で、逆に昼はしっかりとしたコース料理を召し上がるのが通例のようです。

スペインの夕食は通常8時過ぎからですが、サン・セバスチャンのバール巡りは6時、7時からスタートしています。

 

さてラーム主催のチャンピオンズディナーのメニューを見てみましょう。

サン・セバスチャンを想い起こすかのような6種のタパスとピンチョスのスターターから始まります。そしてバスク地方で獲れる蟹のサラダ、メインディッシュはバスク産のリブアイステーキ、又はヒラメ料理に隣県のナバーラ産のアスパラガス添えとなっています。山間のナバーラ県はパンプローナの牛追い祭りが有名ですね。そしてデザートはフランスバスク地方が発祥とされるミルフィーユケーキ「ミルホハス」、高齢のジャック・ニクラウスやゲーリー・プレーヤーにはややヘビーな献立かも知れませんね。笑、

 

 

 

オーガスタナショナルGC史話

 

オーガスタナショナルのコース設計者アリスター・マッケンジーがオーガスタの地に辿り着くまでの道程で、全米のアマチュアタイトルを総なめにした女性ゴルファー、マリオン・ホリンズを忘れてはなりません。彼女の父は、ニューヨーク、ウォールストリートで証券会社を所有し、所謂銀行をつくる男として知られていました。ロングアイランドに600エーカーの敷地に建つ豪邸には乗馬クラブ、テニスコートに3ホールのゴルフコースがありました。そんな恵まれた環境で生まれ育った彼女のアスリートたるその才能は、後にゴルフ、テニスのアマチュア大会のタイトルホルダーへと成長していきます。

 

*アリスター・マッケンジーとマリオン・ホリンズ

 

ホリンズはビジネスにも才覚を持ち合わせていました。彼女は西海岸で幾つかの不動産を絡めたゴルフ場開発に関わります。そのひとつにサイプレスポイントGCがあり、更に自身が全財産を投げ売って造り上げたサンタ・クルーズのパサティエンポゴルフコースと周辺の住宅開発でした。

彼女はオーストラリアのロイヤルメルボルン、ニューサウスウェルズ、サンフランシスコ北部のメドゥクラブの設計で一躍有名になったマッケンジーに注目します。サイプレスポイントの開発は設計がセス・レイノーでしたが他界された為に彼に代わる設計者が必要でした。パートナーであった名手ロバート・ハンターは彼女の案を持ってマッケンジーに設計を依頼します。マッケンジーのゴルフコースへの感性にホリンズは次の計画予定のパサティエンポの設計も依頼する事にします。

その後、アマ同士としてボビー・ジョーンズと親交のあったマリオン・ホリンズはペブルビーチにやってきたジョーンズをサイプレスポイントに招待します。

当時彼女にはひとつのビジネス戦略がありました。完成されたばかりのサイプレスポイントに招待するだけでなく、当時まだ造成中であった自らが創設者のひとりになったパサティエンポのコースにも招き、メディアに話題を提供する事でした。翌年パサティエンポゴルフコースのオープニング式典にもボビー・ジョーンズを招き、大勢のギャラリーがジョーンズを一目見ようとパサティエンポのあるサンタ・クルーズの丘に集まりました。住宅地は飛ぶように売れていきます。そしてジョーンズはセントアンドリューズ・オールドコースに設計哲学を持つアリスター・マッケンジーの見識に魅せられていきます。

 

* ボビー・ジョーンズとホリンズ

 

 

 

クリフォード・ロバーツの財力とネットワークも味方につけて1931年オーガスタの土地を手にしたジョーンズはコース設計をマッケンジーに依頼し、三者はニューヨークのゴルフ場で最初のミーティングを行います。そしてジョーンズはマッケンジーをオーガスタに連れて行き、セントアンドリューズ・オールドコースの哲学をその大地に注入することを要望します。

マッケンジーの設計哲学の源がセント・アンドリューズにあることはこれまでもご紹介してきました。オールドコースの波を打つかのような砂丘の地形に、絨毯かのように敷かれたグランドレベルグリーン、クラシックコース時代、内陸部では地面の実際の高さより盛土してグリーンを作るのが主流でしたが、マッケンジーは盛土せずにグランドレベルのスロープを活用して、バンカーで掘削した土砂をバンカーのマウンドにし、そのスロープをグリーン面に流す手法を用いていました。彼はそれで人間が造るマンメイドなリンクスの世界でもオールドコースの愉しみ方は伝えられると考えていました。

そしてマッケンジーは高低差55メートルはあるオーガスタの大地で思いついたのは自身が英国で設計したSitwell Park GCで描いたスロープを活用したグランドレベルグリーンを更にオールドコースの理論に近づけることでした。

マスターズの大会をより高度化させるために改良、改造を繰り返してきたオーガスタナショナルですが、このマッケンジーの哲学は今もグランドレベルグリーンの中に生きています。もし貴方がマスターズを観戦に行かれるならば、地面に顔を近づけ、目線を下げてグリーンの方向を覗いてみてください。幾つかのグリーンはグランドレベルのスロープの中にあることが分かるでしょう。

 

*セントアンドリューズ・オールドコースの砂丘が作り出す起伏とスロープライン

 

* 地形のスロープを活用したマッケンジーのグランドレベルグリーン Sitwell Park GC  UK

 

 

 

コース設計者アリスター・マッケンジーが描いたオーガスタナショナルのアウト、インの2ループにおける18ホールのルーティングで、1番と10番(*開設当時はアウト、インは逆)のレイアウトはすぐに決定した事だったでしょう。

その理由は正門となるマグノリアレーンとクラブハウスの歴史にあります。

19世紀半ば、デニス・レッドモンドによる開発を引き継いだベルギーからのベルクマン男爵がここに果実園と世界からの樹木、植物を植栽し、それをビジネスとしました。高低差55m、ふたこぶラクダのような地形に谷間には幾つものクリークが流れサバンナ川へと注いでいくその土地は球聖ボビー・ジョーンズが購入した当時から正門として現在のマグノリアレーンは存在し、クラブハウスはこの荘園の邸宅でした。

従って、マッケンジーは、このオーガスタナショナルの台地のどこから18ホールをスタートさせようか悩む必要はありませんでした。

 

 

* 1900年代初頭のマグノリアレーン。オーガスタナショナルが完成されるはるか以前からこの正門はバークマンズ男爵家所有のフルーツ農園の入口として存在していた。現在のクラブハウスも、元はバークマンズ家のマナーハウスでした。

 

 

1943〜45年は大戦が激化した事からマスターズ開催は見送られ、華麗なるオーガスタナショナルの歴史の中で唯一暗い時代でした。軍への支援の為、果樹や野菜の栽培、更にはコース内に家畜が放されました。不況の中、閉鎖されるクラブも多い中、オーガスタナショナルとてあらゆる手段を持って生き延びる方法を探った時代でした。

 

* 家畜が放牧されていた時代 奥にクラブハウスが見えます。

 

 

Text by Masa Nishijima

Photo by Masa Nishijima, RGD, Augusta Museum History, AN資料室

         The Life and Work of Dr.Alister Mackenzie,