こちら、本物の馬蹄。

イギリス競馬を司るジョッキークラブのディナーに招かれた時のこと。
ゲストをもてなすために美しく整えられたテーブルの上に飾られていました。
普段であれば馬に纏わるモノには直ぐにでも飛びつくのですが、余りの生々しい姿に躊躇していると、お隣のマダムが「伝統なのよ!」と優しく教えてくださいました。

気を取り直して、プレートに書かれた文字を辿れば、
「the Hoof of Eclipse(=エクリプスの蹄)」とあります。
そう!あの、サラブレッドの礎を築いたと言われる名馬の蹄です。
しかも200年も前に亡くなった馬の本物の蹄が目の前にあるのです。
今思えば、動物の剥製を飾ることと同じことかも知れません。
けれども、初めて見たテーブルの上の蹄はやはり不気味で、目を背けてしまったことを
とてもよく覚えています。

実はこの馬蹄は、19世紀頃のイギリスで始まり、ヴィクトリア時代に最盛期を迎えたポピュラーな風習でした。蹄には職人の手によって装飾が施され、馬の名前や生没年月日、軍馬であればその功績なども記されました。当初はトロフィーなどが一般的でしたが、後に嗅ぎタバコの箱やインク壺、燭台や灰皿などとして、主人と馬との強い絆を伝えたのです。

また、亡くなった馬の身体から蹄を切り離すことには別の理由もありました。
当時の馬は国力の象徴であり、軍事の要でもありましたので、蹄は「死亡証明」。
戻ってきた蹄の数を数えれば、離れた戦地の状況を具体的な数字で得ることができます。蹄の大きさや形によって砲兵であるか騎兵であるかを識別し、どの連隊に属していたかなどを把握することも可能になります。その結果、蹄を回収することで、効率的に兵力の交換や補給の策を講じることができたのです。

現存する名馬の蹄の中でも、最も代表的な蹄はナポレオンのマレンゴでしょうか。
白く美しいマレンゴに跨り、勇ましく手を振り上げたナポレオン姿はあまりにも有名です。
幾度となく共に描かれたマレンゴは、1815年、Battle of Waterloo(ワーテルローの戦い)での敗戦によって、イギリスのWilliam Petre, 11th Baron Petre(ウィリアム・ピーター=ピーター男爵)に捕えられました。
帰国後、ピーター男爵はマレンゴを売却。マレンゴはイギリス国内の牧場で余生を過ごし、38歳でこの世をさりました。
現在、マレンゴの馬体は骨格標本として、National Army Museum(国立陸軍博物館)に展示されていますが、その内、2つの蹄は身体と共にはありません。
一つは実業家であり美術品コレクターでもあったJohn Julius Angerstein(ジョン・ジュリアス・アンガースタイン)によって嗅ぎタバコの箱として、さらにもう一つはインク壺として加工され、代々家族に受け継がれているのだそうです。

ちなみに、最初にご紹介したエクリプスの蹄については、ジョッキークラブ所有以外にも「本物」と称されるものが5つもあるのだとか!ただし、ニューマーケットのNational Horseracing Museum(国立競馬博物館)には、悠々と四肢で立つエクリプスの骨格標本が残されています。


 

MILKY KORA

馬ジャーナリスト / Maraque編集長。京都生まれ。
幼い頃から馬術を嗜み、乗馬専門誌の編集を経て馬ジャーナリストとして独立。2010年に世界最高峰のホーススポーツを伝えるEquine Journal Maraqueを、さらに2014年にはより専門性の高いMaraque for Professionalを創刊。現在は日本で唯一のホーススポーツ専門誌として発行を続ける傍ら、ライダーのマネジメントや馬イベントの開催など馬に関する幅広い活動を行っている。