1964年10月24日。

今から56年前の今日、東京オリンピックは閉幕の日を迎えました。

史上初のアジア開催、そして敗戦からの復興と急速な経済成長を続ける日本の姿を世界に誇示した東京オリンピック。その最後を飾ったのが、他でもない馬術競技のジャンピングだったのです。

当時は、戦後間もない不安定な時代。オリンピックもまた国力を競い合う重要な機会であり、馬術を重んじる風潮が残っていたのです。

日本では決してポピュラーではない馬術競技でしたが、閉会式の直前、オリンピックスタジアムの大観衆を前に行われるのがオリンピックの慣例。この後も、1988年のソウルオリンピックまでは、オリンピックの最終競技として、ジャンピングの決勝戦がオリンピックスタジアムで行われていました。

今でこそ、馬をパートナーに男女が同じ土俵で戦う、平和的で平等な競技として取り上げられることの多い馬術ですが、歴史的には最も軍事的で不平等だったのも馬術競技でした。

当初、馬術競技への参加が認められていたのは騎兵将校のみ。その後、一般の馬術家にも門戸が開かれたのは、第二次世界大戦の終戦から7年後の1952年、第15回ヘルシンキ大会でのことでした。

この時、女性にも出場が許されましたが、種目はドレッサージュのみ。女性には「女性らしさ」を求めた時代に、女性が馬に乗って障害物を飛び越えるなどもっての外だったのです。

ただ、馬術競技における女性選手の活躍は目覚しく、初出場のヘルシンキ大会ではデンマークのリス・ハーテル(Lis Hartel &馬:Jubilee=写真)が、個人で銀メダルを獲得。軍服姿の男性と並ぶ表彰式の写真は、時代を象徴していると言えるでしょう。

さらに、東京オリンピックで注目を集めた女性選手と言えば「井上夫人」こと井上喜久子選手。当時の新聞や雑誌では、当たり前のように「夫人」と紹介されていたのですから、現代との価値観の相違を改めて実感します。

また、この東京オリンピックでは、最後まで女性の出場を許さなかったイベンティングでも初めて女性の参加が認められ、ようやく馬術競技の3種目全てに男女が出場できるようになりました。

極めて保守的でありながらも、ひと度解放すれば次々と女性選手が表彰台に上がるのは、馬が性別を選ばないからでしょう。東京オリンピックのイベンティングでは、アメリカの女性選手ラナ・ポント(Lana du Pont & 馬:Mr.Wister=写真)が初出場ながらチーム銅メダルを獲得しています。

以来、半世紀の時を経て、馬術は軍事からスポーツへと移り変わり、性別を越えた好勝負が繰り広げられています。特にドレッサージュでは、8大会連続で女性選手がオリンピックチャンピオンに君臨し続けています。

また、選手生命が長いことも馬術競技の特徴の一つではありますが、パートナーとなる馬の絶頂期は短く、オリンピックにピークを合わせることは決して簡単なことではありません。来年の東京では、短くも長いこの1年の延期をどう攻略するのかもまた、勝負の分かれ目になることでしょう。

今から88年前、1932年のロサンゼルスオリンピックにおいて、騎兵中尉だった西竹一とウラヌス(冒頭写真)がジャンピングで獲得した金メダルは、日本馬術界にとって、未だ唯一つのメダル。

その後も、日本は世界への挑戦を続けていますが、個人ではアテネオリンピックでの杉谷泰造とラマルーシの15位が最高です。その杉谷泰造は、現在、オリンピック6大会連続出場の日本記録に並び、東京で7大会連続出場の日本新記録樹立と共にメダル獲得を目指しています。

もう、オリンピックスタジアムでジャンピングの決勝戦が観られることもありませんが、馬術競技の会場となる東京・世田谷のJRA馬事公苑(=写真)では、改修工事も終え、この秋にはジャンピングとドレッサージュの全日本選手権を開催。一年越しとなる日本馬術界の悲願達成に向けて、準備は着実に進められています。

 

MILKY KORA

馬ジャーナリスト / Maraque編集長。京都生まれ。
幼い頃から馬術を嗜み、乗馬専門誌の編集を経て馬ジャーナリストとして独立。2010年に世界最高峰のホーススポーツを伝えるEquine Journal Maraqueを、さらに2014年にはより専門性の高いMaraque for Professionalを創刊。現在は日本で唯一のホーススポーツ専門誌として発行を続ける傍ら、ライダーのマネジメントや馬イベントの開催など馬に関する幅広い活動を行っている。