No.2 馬とゴルフは切っても切れない縁にあった。
その記述書からスコットランド最古のゴルフクラブと言われるマッセルバラリンクスは、競馬場の中に9ホールがレイアウトされている。設立が1672年とあるが、何故か、1567年にメアリー女王が、再婚されたばかりのボスウェル伯とここでゴルフを楽しまれたとの言い伝えが残されている。ボスウェル伯との再婚から、メアリーは前夫ダーンリー卿殺害の疑いがかけられ、この年の7月にロッホ・レーヴェン城に監禁され、廃位となった。マッセルバラリンクスは1874~89年にかけて、6度も全英オープンが開催されているが、ここもいくつかのゴルフソサイティクラブによって運営されてきた。その中で最も有名なソサイティグループが、1744年から加盟したHonourable Company of Edinburgh Golfersである。後に彼らは1891年に脱会し、男性オンリーのクラブ、あの名門ミュアフィールド(Muirfield) を設立する。
マッセルバラリンクス
さて競馬とゴルフがひとつの場所に複合している例は、英国にいくつもあり、有名な所ではホイレイクことロイヤルリバプールゴルフクラブであり、ここはかつてロイヤル・リバプール・ハント競馬場としても有名だった。1番と16番に挟まれたトラックがその名残である。
米国にもそれは継承され、ボストン郊外の名門ザ・カントリークラブ・ブルックラインに競馬場があったことは有名であり、同じマサチューセッツ州の名門、第一回全米オープンが開催されたマイオピアハントクラブでは今でもポロや狩りが楽しまれている。
パインハーストリゾート
皆様たちもよくご存知のノースカロライナ州パインハーストリゾートも、実は競走馬の冬期トレーニングセンターが始まりとなって、1916年からハーネストラックレース(馬車レース)や乗馬ショウが、現在も不定期ではあるが行なわれている。ゴルフコースに囲まれるかのように、レーストラックはあるが、大半の方がこれに気づかずにプレーをされているようだ。競馬とゴルフの歴史は、実は日本も同様である。日本最古のゴルフコースは、1903年に神戸六甲の山岳地に開設された神戸ゴルフ俱楽部である。しかし当時はまだ芝草への見識は浅く、サンドグリーン(砂を固め整地したグリーン)で楽しまれていた。
それから僅か3年後、関東にもゴルフコースが誕生する。それは1866年に開設された横浜根岸の競馬場の内側に造られたNRCGA(Nippon Race Golfing Association)、日本で初めて芝のグリーンを持った9ホールコースであった。競馬場は戦中の1942年に閉鎖され、ゴルフ場は1969年米軍から返還されるまで存続しました。現在は根岸森林公園として桜の時期には大勢の花見客を楽しませている。
同じ関東には、船橋競馬場の前身となった柏競馬場があった。実はここにもレーストラック内にゴルフコースを作り、競馬のない週日でも都心から人を呼び寄せることに成功した。しかしこれも現在は、ロストリンクス(失われたゴルフ場)のリストに含まれている。関西でも競馬場との関わりを持っている。高地にある神戸ゴルフ俱楽部が冬にプレーできないことから、6ホールの横屋ゴルフアソシェーションが設立され、それが両岸に競馬場のある鳴尾浜に移転し、9ホールコースの鳴尾ゴルフアソシェーションとなり、現在の鳴尾GCの前身となった。鳴尾競馬場は、1907年に建設された現在の阪神競馬場の前身である。馬とゴルフの共通性、日本でも昔からハイソサイティなセレブたちにとって、究極のレジャーであったことは確かなようだ。
米国人が憧れた社交の場。
第一回目の全米オープンが開催されたマイオピアハントクラブやザ・カントリークラブブルックラインは、ハンティング、ポログランド、レーストラックが造られ、その後にゴルフコースが造られていった歴史がある。そしてそこにはいつも同じ社交の場で、馬とテニス、クリケット等がゴルフに被さってくる。それはセレブ族だけのプライベートな空間だった。米国には元々欧州にあるような貴族社会は存在しない、だから皇室、貴族社会に憧れるアメリカンセレブの世界が誕生し、彼らは貴族社会に近づこうとした。少なくとも1929年に勃発した大恐慌までは。
東京ゴルフ俱楽部の発起人のひとりである井上準之助は、20世紀初頭日本銀行のNY支店に転属される。そしてテニスコートのある社交クラブ、プレインフィールドカントリークラブで、初めてゴルフに出会い、魅了され、外国人メンバーの一人となる。しかし休日に訪れるPlainfieldで、彼の視界に飛び込んでくるのは、テニス、乗馬を兼ねたハンティングが主流であり、ゴルフは三番目のステータスであった。それは井上を含めた在米の日本人エリートたちはゴルフに溶け込みやすい環境でもあった。それから100年以上の歳月が経ち、日本にも、ゴルフと馬の歴史の共存性を唱えるプライベートクラブが誕生しようとしている。コース内から馬たちが放牧されているシーンを観れるならば、ゴルフの愉しみ方、メンバーとしてのモチベーションのあり方は、自らが演出しなくてはならない事を悟れるでしょう。パーティで、人を楽しませることが出来る人は立派、人に煽てられ楽しませてもらう人ほど哀れなものはない。プライベートクラブのソサエティーとはそういうものではないだろうか。
マイオピアハントクラブ
Polo or Baseball
世界中では、これまで多くの名コースが失われていった。その原因の多くは戦前の大恐慌から第二次大戦であり、国によっては当時の政治思想も強く影響した。2014年、スポーツイラストレイテッド誌では、蘇らせたいスポーツ競技場の中に、ロングアイランドのリドゴルフクラブをはじめ、いくつかのゴルフ場の名が記載されていたが、やはりニューヨーカーのロマンを抱かせるのは、ハーレム地区ハミルトンハイツにあったポログランズで、これがナンバー1であった。それはEdgecombe Aveと157th Stの高台にあり、現在もそこに行くとその痕跡を所々に発見できる。名称の通り、元々はポロ競技に使われていたグランドが、野球にも使われはじめたのは1891年の事で、当時のニューヨークを本拠地にしていたジャイアンツがホームグラウンドとして、1957年まで使用しました。ハーレム川を隔てた対岸にあるヤンキースタジアムですが、1923年に、ベーブルースの人気によって、スタジアムが建てられるまでの13年間は、そのポログランズを間借りしていたのです。左打者のルースが、ヤンキースに移籍して、本塁打を連発した最大の理由は、このポログランドのユニークな型にあった。それは何とライトポール際までは79mしかなく、プルヒッターのルースはそこをめがけて打ち込んでいました。しかしそこから右中間の137m地点までフェンスはイッキに広がり、センターの一部は奥に凹み、そこまでの距離は何と145m、更にフェンスはそこだけ18mもあるのだから、ルース以外の打者にとって、そこはまさにデスヴァレー(死の谷)でした。1954年のワールドシリーズ、ジャイアンツのセンターを守る至宝ウィリーメイズが、センターフェンス際までの大飛球を後ろ向きで捕らえた超ファインプレーは、後に「ザ・キャッチ」の名で後世に伝えられている。日本の甲子園球場は、実はこのポログランズをモデルにして設計されました。1963年にその姿を消したポログランズ、なんとかもう一度再現してもらえないものか。米国では失われたゴルフ場や野球場の復元を望むファン達も多く、誰もがスポーツ文化人として、過去の栄光へのロマンに浸ってみたくなるものだ。
MASA NISHIJIMA
ゴルフコースコメンテーター&コースアドバイザー。東京生まれ。
明治大学卒業後、米国留学。
ドン・ロッシーの元でゴルフコースのクラシック理論を学ぶ。
現在まで世界56カ国2300コース以上を視察。
1989年より、米ゴルフマガジン誌世界トップ100コース選考委員会に所属。
1991年から2015年までは同委員会の国際委員長を務める。
「ゴルフコース好奇心」,「ゴルフコース博物誌」「The Confidential Guide 」などの著書もある