No.44 著名コース設計家シリーズ ❷
ゴルフコース黄金期を築いたフィラデルフィアスクールの代表的設計家
ジョージ・クリフォード・トーマスJR(George Clifford Thomas Jr) (1873-1932)
By Masa Nishijima
世界中に名コースが誕生したクラシック時代の設計家の中で、才人とも称された人物が二人いる。トム・シンプソン(1877-1964)は、英国で幾つもの名門の設計、改造に関わりながら、フランスの名門モルフォンテーヌ等、英国人として欧州大陸にもリンクスゴルフのエスプリを伝え、「ゴルフコース設計の側面」等、コース設計における学術書を何冊も書き下ろし、米国のクラシックコース時代に多大な影響を与えた人物である。しかし大戦後、ゴルフ界から身を引き、趣味でもあった画家、詩人として余生を送った。
そしてもう一人の才人が、今回ご紹介するジョージ・クリフォード・トーマスJr (1873-1932)である。
ペンシルバニア州フィラデルフィアに生まれ、父が投資銀行の創設者の一人であった事から、学生時代からゴルフに明け暮れた青年だった。ペンシルバニア大を卒業後、父の投資銀行の開発部に身を置くが、実は大学での専攻は造園学、植物学者としての学位を修得していた。1907年、そんな彼が父の知人の紹介からマサチューセッツ州スプリングレイクで計画された9ホールのパブリックコース、メイリオン(Marion GC)の開発に造園学者として参加する。そこで彼はコース設計に強い関心を持つ事となる。
翌年の1908年、フィラデルフィア郊外チェスナットヒルのトーマス家が所有していた広大な用地にマウントエアリーCC(現在のホワイトマーシュバレーCC)を自らの処女作として発表、用地すべてを個人の所有とせず、メンバーによるメンバーのカントリークラブの資産として売却、自らは一メンバーとしてキャプテンを務める。尚、彼が生まれ育った豪邸は後にクラブハウスとして活用される事となる。
彼のコース設計への関心は更に深まり、ドナルド・ロス設計のフラワータウンCC(Flourtown CC 旧Sunnybrook GC)に始まり、フィラデルフィアクリケットクラブでも理事としてコースに関わっていくが、彼はそこで設計者のアルバート・W・ティリングハースト(A.W.Tillinghast)やヒュー・ウィルソン( Hugh Wilson)、ジョージ・クランプ(George Crump)等と知り合い、ナショナルゴルフリンクスオブアメリカ等のニューヨークの名門に対抗すべきトップクラスのクラシックコースをペンシルバニア出身の仲間たちの英知で造るソサイティを結成する。後にそれはフィラデルフィアスクールとして称され、彼らは一つのプロジェクトでも、常にパートナーとして自身のアイデアを提供したりした。その極め付けが世界ナンバー1コース、パインヴァレーGCであり、オーナーのジョージ・クランプ亡き後、彼の意志を引き継ぎ、パインヴァレーを完成に導いたヒュー・ウィルソンのメリオンGCである。トーマスJRはそのどれにも設計アドバイザーとして参加し、1919年、彼は住み慣れたはずのペンシルバニアを離れ、西海岸へと移住する。しかしその理由が面白い、それは学生時代から彼が専門としていた植物学を一年中温暖な気候のカリフォルニアで研究することであり、そのテーマとなっていたのがバラの品種改良をする菜園である。この写真はフィラデルフィア時代の1917年に出版した彼のバラへの愛着を記した研究の著書である。
西海岸にバラを求めて。
ロスアンゼルスに移住して、フィラデルフィア時代に設計を引き受けていたサンタバーバラのLa Cumbre CCの造成に従事し、そしてロスアンゼルスCC(以下、LA CC略)から入会とコース設計の相談役を受ける。当時英国人コース設計家ハーバート・フォウラー(Herbert Fowler)によって、ノース、サウスの36ホールが設計される計画にあり、ノースコースはトーマスの意見も入り、1921年に完成された。
その後もレッドヒルCC(Red Hill CC), パロスベルデスGC(Palos Verdes GC), オハイヴァレー(Ojai Valley)など幾つもの作品を手がけ、ロスアンゼルス市営コースとしてグリフィスパークゴルフコース(Griffith Park Golf Course 36ホール現Wilson & Harding Golf Course)では予算がショートすれば、自らの資産を投じて36ホールを完成に導いた。そんな彼を人はキャプテン・トーマスとして称えるようになる。事実、資産家であった彼は生涯コース設計をビジネスとはしなかった。
同じペンシルバニア出身で、後にフィラデルフィアスクールのメンバーにもなったウィリアム・パーク・ベル(William Park Bell 通称Billy Bell )は、トーマスよりも一足早く西海岸に入り、土木技師、芝草の専門としてコース造成に携わっていた傍、アナンデールGC(Annandale GC)ではキャディマスター、パサディナGC(Pasadena GC)ではグリーンキーパーとしても従事していた。トーマスがベルに会ったのは1924年Palos Verdesのプロジェクトでの事、Bellはスーパーインテンデントとして現場を指揮しコースを完成させた。ここから1930年トーマスがゴルフ界から引退するまで、ベルはトーマスにとって、なくてはならない設計パートナー、現場指揮官となる。
Bellの造成の最大の特徴はバンカーの形状にあった。バンカーエッジから流れる幾つものリップスの形は、まるで野球のグローブのようにも見えた。しかしこれが後にクラシックバンカーのステータスのような形状となり、戦後は多くの設計家たちがそれを真似るようになる。
BellとThomasのコラボレーションは、その後も大ロスアンゼルスで多くの大作を誕生させていく。その三大名作が、ベルエアCC(Bel Air)とロスアンゼルスCC ノースコース(LA CC North), そしてリビエラCC(Riviera CC)である。
Bel Airの設計にはトーマス、ベル以外に一人の名手が参加した。ペブルビーチをダグラス・グラントと共に設計したジャック・ネビルです。
トーマスの設計は18ホール中、Par3, Par4, Par5に必ず名物ホールを設ける主義の人でした。ベルエア(Bel Air)では土地買収の失敗から谷越えのロングPar3を思いつき、グリーンに向かう為の橋を架けた話は有名です。その設計段階でのテストショットをしたのがネビルで、ベルエアの名物となった橋はSwinging Bridgeと名称されています。2018年、Bel Airはトム・ドォーク率いるルネッサンスチームによってオリジナルの姿に復元されました。
ロスアンゼルスCC(LA CC) ノースコースはベルエア(Bel Air)とリビエラ(Riviera)の造成とほぼ同時進行で改造が行われました。ここでノースコースは100% トーマスのオリジナル作になります。そして驚くのは、そのオリジナルの15番ホールのスケッチに、なんとRivieraの6番ホールでもお馴染みのグリーン内にバンカーを設けるアイデアを考案していたことです。
Rivieraの6番については、造成中視察に訪れたアリスター・マッケンジーが、手前のバンカーを左右から囲むような馬蹄型グリーン(horseshoes Green)にする事を提案し、それに従ったがグリーンの面積が狭いことから手前にもグリーン面を設けそれを繋げた事が定説となっています。
しかしこのノースコースの15番の図を拝見する限り、トーマスは最初からグリーンセンターにバンカーを設けるアイデアを持っていたのではないでしょうか。ロスアンゼルスCC ノースコースは、かつてトム・ドォークの設計パートナーだったギル・ハンスによりトーマスのオリジナルに復元されています。
トーマスがRiviera CCの発起人メンバー達から設計の依頼を受けたのは、1925年の秋の事。当時彼らはコンサバティブな階級主義のLA CCに対抗するべき、カントリークラブの設立を目指していた。大恐慌前のバブル期の投資対象となった西海岸の開発では、その時代の米国特有の人種的、宗教的偏見も生まれていたが、しかしRivieraのコンセプトは違っていた。すべての成功者を迎え入れる解放感に包まれていた。そのような中、ベバリーヒルズやベルエアなど、最高級住宅地の開発には、西海岸最大のマーケットを創り出すハリウッドの映画産業が密接に結びつき、Rivieraは次世代のカントリークラブを形成していきます。
トーマスがリビエラの用地を見た後、クラブの発起人たちにゴルフコースとは?のレクチャーをされた時のスケッチの一つが下記の図です。当時では珍しく、技術に合わせた3本の攻略ルートが描かれています。彼がRivieraのオリジナルで描いた図には、すべてのホールに複数の攻略ルートが描かれていました。リビエラはタフなコースです。しかしあらゆるレベルのゴルファーにパーセーブのチャンスを与える配慮が見られます。
例えば、フォワードティからでも200ヤードを超える4番のパー3は、クラシックレダンのデザインながら、ショートヒッターでも1オン可能なルートが右サイドに設けられています。
1927年リビエラの完成を記念して、トーマスは自身の設計への哲学とロマンを一冊の著に纏め、それは本場英国でも大変な評価を得ました。そして30年、名門スタンフォード大付属コースを自身の最後の作品としてゴルフ界から引退し、ベバリーヒルズの豪邸でバラ菜園を楽しむ生活を送り、59歳の若さで偉大なる生涯の幕を下ろしました。
Text by Masa Nishijima
Photo Credit by Joann Dost, Larry Lambrecht, Geoff Shackelford, Golf Club Atlas,
Society of Geo.C.Thomas Jr, Masa Nishijima