No.14 リオオリムピックゴルフの真実。PART 2
2009年10月9日、デンマーク、コペンハーゲンでのIOC協議会にて、ゴルフが112年振りに復活することが決定された。リオには二つの古き名門、ガヴェアG&CC, イタニャンガGCがあり、当初はこの二つの既存クラブで、男女分けての開催が考案されていました。丁度この頃、日本では、もし2020年東京開催が決定するならば、選手村を中心とした半径8km内に85%の競技会場を配置するコンパクト案から、JGAは都に若洲ゴルフリンクスを開催コースとして推薦していました。ところがIGF側が、112年振りのゴルフ復活をかけて、大体的にPRしたい意向から、PGAツアー側と協議を始めた頃から話しはやや違った方向に進み始めてしまった。そう、つまりトップアマによる開催から、トッププロを招いての開催が提案とされ、ならばそれに相応しいゴルフコース建設案が勝手に動き出したのです。それにまず飛びついたのが、ニック・ファルドの設計チームでした。彼らは一番にリオに入り、用地としてはまだ決定されていなかった市の北東に位置する丘陵地を見学した。これは数日後、全米ゴルフジャーナリスト協会がリポートし、日本では故・デューク石川氏がこれを某専門誌で報道されたと記憶します。ファルドに続き、R.T.ジョーンズJR、グレッグノーマンチーム、英国からはマーティン・ホートリーが現地を視察に訪れ、PR合戦が始まりました。しかしリオ市とIGFは、2010年の初秋に、コース設計家の選択は、コンペで行い、勝利者には設計料US30万ドルに、リオのコンドミニアムの最上階のペントハウスを提供することを発表しました。当時リーマンショックからゴルフコースが増えるどころか減少傾向にあったご時世ではありますが、一流設計家はまだミリオンを超える設計料を受け取っていた。つまり彼等にとって、US30万ドル程度のフィーは関係なく、オリムピックコースの設計者になる名誉が、自身のPRになると考えていたのです。このコンペは、同時にIGFがオリムピックゴルフをプロモーションする最大の要素ともなりました。アプローチを仕掛けるコース設計家にとって、地元の権力者たちからの推薦は大事でした。リオの場合は、州及び市議会の代表者たちであり、又、二つの名門クラブの名士たるコミッティーメンバーは、推薦に必要な絶対的権力者たちでした。ところが多くの設計家たちはこの二つのアプローチ手段を選ばず、ゴルフ後進国とされるブラジルに対し、上から目線で、コンペに参加されてきた。11月の最終段階でのプレゼンテーションの〆切には、8名が残りました。そして女子の大会もあることから、LPGAプロをパートナーにする者も登場した。ジャック・ニクラウス&アニカ・ソレンタムのチーム, グレッグ・ノーマン&ロレーナ・オチョワ、ピーター・トムソン&ロス・ペレ、ゲーリー・プレーヤー、R.T.ジョーンズJr、マーティン・ホートリー、トム・ドォーク、そして〆切日ぎりぎりで、エミー・オルコットをパートナーにしたギル・ハンスが参戦してきました。組織委員会のアドバイザリー顧問をされる関係から、ジャック・ニクラウスとゲーリー・プレーヤーの二人の設計家は、コンペを辞退された。12月のプレゼンテーションは、審査委員4名を含めた関係者たちを相手に個別に行なわれましたが、この時点で、不手際なのかどうか理解に苦しむような不祥事が発覚しました。R.TジョーンズJr等数名に与えられた建設予定地が他の設計家のものとは異なっていたのです。つまり彼等は当初予定していた市外北東部の丘陵地で、正式な用地となったバーハダチジュカ(Barra da Tijuka)の土地ではなかった。これにR.TジョーンズJrは、委員会に意義申し立てを行ない、コンペの決定は事実上、翌年の2月に持ち越されることになった。信じられない不手際な出来事は、けして公にされることはなかったが、しかし、ノーマンやトムソン等は、この時点でコンペを辞退しました。そして2月の段階でホートリーとジョーンズJrが辞退し、残されたのは、トム・ドォークとギル・ハンスだけとなったのです。そしてこの二人に共通して言えることは、上から目線ではなく、ドォークはリオの名門ガヴェアG&CCやサンパウロのゴルフ界の名士たちからの強い推薦を受け、ハンスはイタニャンガGCの名士と議会派グループの強い推薦で、最後にコンペに参加してきたことです。しかし人生は皮肉なものです。ハンスは、設計家を目指した頃、ドォークのもとで苦楽を共にし、シェーパーとして、ショベルカーを巧みに操る技術をいかんなく発揮した男です。独立してからは、しばらく鳴かず飛ばずの人生を送りながらも、謙虚に地元ペンシルバニアの名門の修復作業などを努め、大成していった。この二人をオリムピックコースのコンペで競い合わせるなど、誰が想像したでしょうか。2月のレセプションでは、二人は同じテーブルについて、15年振りに、コース論説を交わしていた。審査の結果は2対2の引き分け、審査委員会は3月への延期を発表しました。ドォークのプロモーター役の一人として同席していた私は、この結果はある程度予測していました。そして何故かハンス側に、フォローの強い風が吹いていることを感じました。私はそれをドォークに説明した。あくまで憶測に過ぎないが、僅か千人にも満たないゴルフ人口のリオにおいて、市営のオリムピックコースなど運営していけるわけがない。
用地となった自然環境保護地区全体の動きを調査すると、ゴルフコース周辺の土地にビッラやコンドミニアム、はたまた高級ホテルの建設計画まであることがわかりました。元々は、環境保護団体の反対やBIO研究所の利権で縛られていた土地、それが公式に発表されれば、とんでもない騒動に巻き込まれる可能性がある。裏でとてつもない人物の影を感じていました。ドナルド・トランプ。。。ハンスはこのコンペに参加する数ヶ月前に、トランプが買収したマイアミのドラールCCの改造計画に担当設計家としてサインをしていました。ゴルフの本場スコットランドやアイルランドでも、飛ぶ鳥落とす勢いで買収劇を繰り広げていたトランブにとって、トランプ・オリムピックコース・リオデジャネイロは、彼にとって人生の集大成たるプロジェクトにする計画だったのかも知れません。3月の最終発表の席上には、ドォークだけがリオに戻りました。しかしその場に、ハンスの姿はありませんでした。ハンスはマイアミのドラールCCプレスルームでその結果を待つ体勢を整えていたのです。案の定、結果はギル・ハンスで決定し、その朗報はトランブのドラールCCでの会見となったわけです。
これらの事から、リオ市長が、市民が守り通した公共の自然保護区の土地を外国人に売るという噂が広がり、それは開発へのトップ同士の利権問題にまでも発展し、マイアミから送られてくるコース造成に必要な資材が、港の税関でストップしたままコンテナに放置されたり、18ヶ月で完成予定だったコースは、なんと3年もの歳月がかかりました。そして完成後の昨年度春までは、このゴルフコースを中心とした環境保護地区の周辺には、オリムピック反対をかかげる市民デモ隊のバリケードが張られていました。リオがオリムピック招致に成功してから僅か数年後、ブラジル経済の不安定さから、通貨レアルの暴落は、底をついたような状態になりました。低所得者層は増える一方、昔から懸念されていた街の治安は更に悪化の一途を辿っているようです。
大統領選に出馬しているトランプが、今もリオのオリムピックコースに興味を抱いているでしょうか?しかし仮にトランブが大統領になり、この計画が頓挫した時、オリムピックコースのレガシーはどこかに吹き飛んでしまうかも知れません。
PS. リオ・オリムピックコースが、フェアウェイに使用しているテキサス生まれのゼオンゾーシア芝(Zeon Zoysia)を、日本では、高麗芝と同じと報道されているようですが、高麗芝よりも細かいヒメ高麗芝に近いクオリティにあります。高麗芝と同じ位置付けの報道には疑問を感じます。ギル・ハンスは、ニューバミューダ芝の一つに考えるべきとの意見です。
MASA NISHIJIMA
ゴルフコースコメンテーター&コースアドバイザー。東京生まれ。
明治大学卒業後、米国留学。
ドン・ロッシーの元でゴルフコースのクラシック理論を学ぶ。
現在まで世界56カ国2300コース以上を視察。
1989年より、米ゴルフマガジン誌世界トップ100コース選考委員会に所属。
1991年から2015年までは同委員会の国際委員長を務める。
「ゴルフコース好奇心」,「ゴルフコース博物誌」「The Confidential Guide 」などの著書もある