連載 GOLF Atmosphere No.111 / 若きジャック・ニクラウスの傑作Shoal Creek Clubで起こったジャンダー問題がオーガスタナショナルの門を開けた。
1960年代半ば、オハイオ州コロンバスでピート・ダイがThe Golf Clubの造成に入るとゴルフコース設計に深い関心をもっていたニクラウスは現場に通い始め、ダイからの指導を受けると同時にトッププロとしての意見も伝えます。二人は69年にもサウスカロライナのハーバータウンのプロジェクトで共同設計をします。共同設計とは建前上で、まだ設計の経験が浅いニクラウスはプレーヤーズ監修の立場でダイの設計パートナー役を務めます。72年ニクラウスは地元コロンバスで自身が創設者の一人となるミュアフィールドヴィレッジの開発に着手します。計画は2つの18ホールコースに住宅開発を伴うプロジェクトで、全体のランドスケープを英国人設計家デスモンド・ミュアヘッドが担当しました。メインコースのレイアウトもミュアヘッドが行いましたが、ニクラウス自身、PGAツアーの開催をテーマにしていた事からグリーンなど設計の細かな部分はニクラウスが担当しました。二人のコンビは後に日本でもニュー・セントアンドリューズGCの設計を担当しましたが、日本をビジネスチャンスの場と見たミュアヘッドはかなり強い意見を出し始めた事から、二人は確執の仲となり、以降コンビを組むことは無くなります。ニクラウスはその後、優秀なシェーパー(造成者)たちの力を借りて単独の作品を発表していきます。ニクラウスが今のように数多くの設計パートナーを持たず、選手生活の合間に設計家として自立し始めた頃の作品には彼の設計へのロマン、コースへのリスペクトが感じられます。その一つにアラバマ州バーミンガム近郊のショールクリーククラブ(Shoal Creek Club)があります。ミュアフィールドヴィレッジ完成から僅か2年後の1976年に完成させたコースです。ゴルフマガジン誌が世界コースランキングを始めた1983年から99年までTOP100コースの地位を誇っていたニクラウス最大のシグネチャーコースと言えるでしょう。
ニクラウス自身当時の事を以下のように述べています。「コース設計家への扉を開いた時、クライアントの多くはPGAツアー開催の為のトーナメントコースを希望してきました。それはミュアフィールドヴィレッジやショールクリーク、グレンアビーに始まり、80年代半ばのキャッスルパインズやヴァルハラに至るまでその風潮にありました。」
さてそのショールクリークの近郊都市、アラバマ州バーミンガムは1910年に開設された米国最古のボールパーク(野球場)リックウッドフィールド(Rickwood Field)がある事でも知られています。球場見学ツアーは街の観光名所巡りの一つにもなっています。今年6月20日に初のメジャーリーグ公式戦SFO vs STLの試合が行われましたね。バーミングハムは、19世紀後半からアパラチア山脈の豊富な石炭や鉄鉱石を利用した鉄鋼都市として栄えて、鉄鋼、金属関連の企業が多く本社を置きました。鉄工業で財を成したウッドワード家の二代目、南部実業家で知られたリック・ウッドワード氏は地元プロチームを買収し、球界のレジェンド、コニー・マック氏のアドバイズをもとに、当時としては珍しい鉄骨のフレームにコンクリートでこのスタジアムを建築しました。リックウッドフィールドの名称は初代オーナーとなった彼の名前からとられたものです。メジャーリーグが発足してまもなくするとバーミンガムはマイナーチームバロンズの本拠地としてこの球場は使用され、後に南部では大人気を誇った黒人のニグロリーグチーム、ブラックバロンズが誕生し、球場は白人のマイナーリーグの試合よりも多くの黒人ファンで埋め尽くされます。49年、高校生だった野球の天才児ウィリー・メイズはブラックバロンズと契約、遠征には行かずバーミンガムで試合をする時だけチームに参加しました。高校を卒業後51年にNYジャイアンツと契約、その後は走攻守完璧たるオールラウンドプレーヤーとして活躍、彼の華麗なるプレー振りは野球の教科書とも称されました。リックウッドフィールドは多くの黒人スタープレーヤーを輩出したレジェンズスタジアムとして現在は博物館となっています。街にはニグロリーグの歴史を今も伝える米国最大の二グロリーグ博物館もあります。
バーミンガムは工業都市として栄え、そこでは多くの黒人労働者が低賃金で雇わられました。その事からマーチン・ルーサー・キング牧師を中心とした公民権運動の中心地にもなったのです。こんなバーミンガムの歴史的背景の中、その郊外に1977年白人オンリーのプライベートクラブ、ショールクリーククラブは誕生しました。1990年全米プロ開催を前にして、バーミンガム市議から黒人をメンバーに入れるべきとのコメントに対し、クラブ創設者であるホール・トンプソンは「ショールクリークは私たちのクラブであり、我々が望む者だけを我々が選ぶ。」と述べ、それが火種となって地元議会と論争を生じる事となります。南部の公民権団体がピケッティングを張った事から、大会スポンサーが広告を撤退し始める騒ぎとなります。PGA側は開催地の変更を検討しますが、最終的にはショールクリーク側と妥協点を見出し、バーミンガム市長の推薦から市の名士、後にアラバマ州ビジネス名誉の殿堂入りも果たしたルイス・J・ウィリー を名誉会員として入会させ、通常のウェイティングリストに載せ、正会員させることを条件としました。彼は当時既に市のあらゆる社交クラブで黒人初のメンバーになっていました。まだ若かったニクラウスもとんでもないジェンダー騒ぎに巻き込まれたものです。今世紀入り、ショールクリークは黒人とユダヤ人、そして2名の女性を迎え入れました。2009年に入会された地元出身者の女性はライス元国務長官です。彼女は2012年に更にジャンダーの壁を打ち破るかのようにあのオーガスタ・ナショナルGC初の女性メンバーにも選ばれます。
貴方はMedinahをどう読まれますか? メダイナ? 歴史がお好きな方ならばメディーナと読まれる方もいらっしゃるでしょう。公式的にはメダイナですが、古きクラブの歴史を知るメンバーはメディーナと言います。
米国にはユニークなプライベートクラブが数多く存在するものです。今回ご紹介するイリノイの名門メダイナCC(Medinah)は、シュライナーズ、所謂フリーメイソンの一派である古代アラビア貴族教団が設立したクラブで、1930年代まではシュライナーである事が入会の絶対条件でした。クラブハウスの館内にはアラビック、ビザンチン様式など様々な装飾が施されています。その大ホールはシュライナーズの集会所として活用されています。メダイナではこれまで全米オープン、全米プロ、ライダーカップも開催されていますが、取材に行かれた記者の多くはこのユニークな外観のクラブハウスは見れど、館内に入る機会がない為、シュライナーズが建設したカントリークラブである事を知らずにいる方も結構多くいます。
シカゴのランドマークの一つにMedinah Templeがあります。北米のシュライナーズの本部がある建物です、ここでは舞台、コンサートも上演されています。2022年、バリーズ・シカゴ・カジノが近くに建設予定となり、その間館内の一部をバリーズカジノに貸す事が発表されました。
米国には古くからユダヤグループだけのプライベートクラブもあれば、いまだに白人至上主義の実業家グループの名門も存在します。
Text by Masa Nishijima
Photo by Masa Nishijima, Larry Lambrecht, Alabama Business Hall of Fame,
Yosh Fukushima, Medina Temple Shriners , Medina CC.