No.41 2018年度全米オープン特集 本命なき対抗なき難コース、シネコックヒルズGC。
「松山選手、小平選手はシネコックヒルズでの全米オープンに勝てますか? 」の質問が多く届きます。もうすでに多くのメディアがシネコックヒルズについて紹介をされておられますが、私なりにもう少し詳しく解説する必要があるかと思います。
南北戦争で一度は消された米国のゴルフ史ですが、1884年、ラッセル・モンタークによるオークハーストリンクスが誕生し、ここからアップルツリーギャングの逸話でもおなじみのニューヨークのセントアンドリューズGC等が続々と誕生しました。マンハッタンの40名の富豪たちによって設立されたシネコックヒルズもその一つでした。1889年、ニューヨークの名士であり、後に史家ともなったエドワード・メード、ダンカン・クライダー、そしてオランダの米国植民地化に大きく関わった貴族家系のウィリアム・K・バンダービルトの3名が、南フランスの避寒地ビアリッツに旅をした際、スコットランドの名手ウィリー・ダンが絶壁の海岸線にゴルフコースを建設しているのに遭遇し、自分たちも地元にゴルフコースを造ろうと計画したのがシネコックヒルズの始まりでした。
ちなみに東京クラシッククラブの麦野豪理事は数年前に、米国のゴルフ史に強い影響を与えたこのゴルフ・ド・ビアリッツを訪問されています。
バンダービルト達は、ニューヨーク州ロングアイランドのインディアンリザベーションに隣接したサザンプトンのヒルトップに用地を得ました。しかしコース造成に知識を持たない彼らは、カナダのロイヤル・モントリオール(1873年設立)を造成したウィリー・デービスに設計を依頼し、1891年、12ホールコースが完成しました。翌年にクラブハウスが完成しますが、米国では現存する最古のクラブハウスとなっています。
さてここで先ほど紹介したクラブ創設者の一人、ウィリアム・K・バンダービルトについてお話ししましょう。バンダービルト家は、オランダのユトレヒト郊外のビルト村の貴族で、バンダービルトとは、貴族の称号となるVanに、出身地を示すder Bilt(ビルト村から)を付けたことに由来する。オランダでの正式な名はファン・クーベンホーフェン家(Van Kouwenhoven)となります。
ウィリアムは、ニューヨークのスタテンアイランドで生まれ、造船、鉄道王として歴史に名を刻むコーネリアス・バンダービルトの孫に当たります。バンダービルト家の一族は、祖父が築いたその財から、銀行家、建設業、不動産及びホテル、興行主としてもその地位を高め、マディソンスクエアパーク(現在のマディソンスクエアガーデン)を建設し、あらゆる興行の会場ともした。つまり全米初のコンベンションビジネスはバンダービルト一族によって企画されたと言っても過言ではありません。
そして南部及びカリブにも避寒地としてのリゾートホテルチェーン「Bon Air Hotel Vanderbilt」にも着手し、その一つが、球聖ボビー・ジョーンズが常宿とし、マスターズ大会の招待客を迎え入れたオーガスタのBon Air Hotelです。
シネコックヒルズは、米国ゴルフ界の創世期を築いた5つのクラブの一つで、このクラブソサイティから、アメリカゴルフ界の父、C.Bマクドナルドを会長にUSGA(全米ゴルフ協会)が誕生します。そしてシネコックヒルズでは英米では初の女性用の9ホールコースが誕生します。
1894年、ビアリッツの設計者、名手ウィリー・ダンにより6ホールが増設され、18ホールとなり、1896年には全米オープンが開催される事となります。
この大会で5位に入ったジョン・シッペンJr(John Shippen Jr)は、黒人とネイティブアメリカンとの混血プレーヤーで、彼は白人以外の初のオープンプレーヤーでもありました。
尚、この大会からシネコックヒルズでの次の全米オープンの開催は、なんと90年後の1986年で、つまり球聖ボビー・ジョーンズはもちろん、ニクラウス、パーマー、プレーヤーの三大レジェンズも全盛期にこのシネコックヒルズでのオープンを経験出来なかったわけです。
86年の大会の優勝者は当時43歳だったレイモンド・フロイド(-1)で、95年大会はコリーペイビン(even par)、前回2004年度の大会優勝はレティーフ・グーセン(-4)で、誰も彼らを優勝候補にあげていなかったことから、シネコックヒルズでの大会は、本命なき対抗なきUSオープンともいわれています。
さて話をゴルフコースに戻しましょう。
コースが18ホール拡張された後の1916年、隣接するナショナルゴルフリンクスオブアメリカの設計で大成功を収めたC.B.マクドナルドがパートナーのセス・レイノーを引き連れて、シネコックヒルズの改造に着手します。
その改造プランとは、レディースコースの一部を無くし、当時ロングアイランド鉄道の線路をまたいでレイアウトされていた4ホール分をそこに移し、ほぼレイアウト全体を改造する案でした。
マクドナルドはこの二つの名門の理事でもあったのですが、改造には反対の意見も多々あったようですが、理事会はそれを押し切り、マクドナルド案を採択します。
レダン、ショート、ビアリッツ、イーデン等、各ホールの名称からも、マクドナルド&レイノー案は、当時のクラシック設計の基本ともなったプロトタイプホールが多く見られます。
このマクドナルド&レイノーによる改造コースも土地の借地権問題などから、
1929年には更なる改造が必要となってきます。しかし当時マクドナルドは既にゴルフ界をリタイアされ、レイノーに至っては、26年に52歳の若さで他界していた。そこでクラブは新たに設計者を探すことになり、当時ザ・カントリークラブ・ブルックライン(ボストン)やチェリーヒルズ(デンバー)の設計で名声を得ていたウィリアム・フレイン(William Flynn)に改造を依頼する。
フレインはマクドナルドのホール攻略理論を継承し、コースのルーティング、レイアウトは変えども、5ホール、6つのグリーンはマクドナルドのオリジナルのまま残しました。そのホールが現在の#1,2,3,7,8,9番のホールです。
そして2年前、今回のオープンに備え、クレンショウ&クーアの名匠コンビがグリーンとバンカーの改修及び新しいオープンティの設置を行いました。
グリーンに限ってはそれまでの大きさより20〜25%ほど拡大されました。しかしこれでホールロケーションの範囲が広がり、コースが易しくなるというものではなく、あくまでフリンジなどグリーン周りの一部をグリーンにしたに過ぎず、それらは傾斜、その勾配度からピンを切れないアンピナブルエリアの範囲を外に広げ、ホールロケーションをよりアンピナブルエリアに近づける厳しいセッティングを演出することになるでしょう。前体会では7千ヤードに満たなかったトータルヤーデージも全長で7445ヤードに伸び、その分、フェアウェイ幅も前回の29ヤードから最大41ヤードまで広げられています。
しかし、シネコックヒルズの最大の特徴は、クラブハウスからセボナック湾にむかって14ホールが一望できるスロープラインと上から地面を叩くように風と下から吹き上げる風の特徴です。グリーンを20%以上拡大してもそこはピンを切れないアンピナブルエリア、FWを12ヤード広げても、そのタフさは変わらないはずです。
何故、アンピナブルエリアを作ったのか、これが攻略のヒントになるかもしれません。
これによりホールロケーションが拡大し、アンピナブルエリアに近づける厳しいセッティングが可能になる。
Text by MASA NISHIJIMA