GOLF Atmosphere No.88 2022年度 全米オープン特集 Part 1 ゴルフにおける「Country Club」名称の発祥地とそのコンセプト
2022年度全米オープンの会場となるThe Country Club Brooklineは、ボストン郊外の一等地にあります。
1882年に設立されたこのクラブは1894年にUSGA(全米ゴルフ協会)を立ち上げる5つのチャータークラブの一つとなりますが、設立当初、クラブの目的はボストンの名士たちが集うソーシャルクラブとして乗馬、競馬が行われていました。開設時の招待状が以下の写真です。
現在競馬場はなく、厩舎も別の場所に移されましたが、テニス、プラットフォームパドルテニス、プール、カーリング、アイススケート&ホッケー、スキートシューティング等の施設があり、ゴルフ以外にこれらの施設を利用するソーシャルメンバーも含め、現在は1,300人のメンバー数を誇るカントリークラブとも言われています(クラブは正式なメンバー数、入会金、年会費は一切公表していません。)。
メンバーになるにはまずWaiting Listに登録し、エントリーの時期が来たら推薦人の他に7名のクラブメンバーの了承が必要となります。築100年を超えるクラブハウスには1860年当時に建てられた農家の部屋もナショナルヘリテージとして残されています。
上は当時のレーストラックと障害物レースの外周トラックを描いた図です。
Eastern Horse Club The Country Club Brooklineとクラブ名が書かれています。レーストラックが無くなった今日ですが、競馬場であったその痕跡をコース内に見ることが出来ます。
ここにゴルフが登場するのは1892年の事、当時レーストラックの内側とその周辺の野原に6つの旗を立てては、そこをめがけて球を打っていたのが始まりのようです。
93年にはそれは6ホールの形を成し、初の大会も開催されました。
ここで何故、The Country Clubの名称になったのか? その由縁は意外なものである事をお話しなくてはなりません。
ここからの説明はThe Country Club Brooklineのクラブ史家Fred Waterman氏から頂いた解説によるものです。
クラブ創設者の一人、James Muray Forbesは19世紀半ば、貿易商人として中国上海に渡り、トレーディングカンパニーを設立します。彼が上海に在籍した8年間、彼は地元トレーダーたちが家族で集うハイソサイティなレクレーションクラブのメンバーとなります。
そのクラブの名称が「The Country Club」でした。ボストンに戻った彼は、1880年、地元の名士達を集め、家族が集えるスポーツ&レクレーションクラブの設立を提案しました。そして競馬も含めた彼の独創的なアイデアに地元の有志たち300人がメンバー登録し、1882年、The Country Club Brooklineが誕生します。
「当時東部のセレブにとって最大のレジャーは実は競馬とボクシングだったのです。」とWaterman氏は語ります。
南北戦争によって一度消されたゴルフの歴史がまだ100%戻っていなかった時代です。しかしここで私たちが深く認識しなくてはならない事は、Forbesが唱えた家族が集まるレクレーションクラブ、それがCountry Clubのコンセプト、名称の意味を成すものであった事です。
米国ではCountry Clubとは仕事を離れ、家族が集い楽しめるAtmosphereな空間でなくてはならないとされています。ここがゴルフクラブのAtmosphereとの大きな違いです。
The Country Club Brooklineの歴史で、最初にゴルフコースを導入するキッカケを作ったのは実はフランス帰りの一人の女性でした。
ボストンの富豪の家庭に生まれたFlorence Boitは、1891~2年の冬にかけてフランスのピレネー山脈の渓流が流れる避寒地ポー(Pau)を訪れた際、現存する欧州大陸最古のゴルフクラブ、Pau GCでゴルフに魅了され、ボストンに戻るとBrooklineのメンバーである叔父のArthur Honnewellと彼のメンバー仲間であるLaurence CurtisとBob Baconにゴルフの愉しさを伝え、彼ら3人はそれまでゴルフとは無縁の人生でしたが、Florenceの熱意ある言葉にゴルフコースの建設をクラブ側に要望します。
そこで完成されたのがレーストラック周辺の野原で6つの旗を立て楽しんでいたゴルフゲームを6ホールコースとして完成させることでした。
そして1899年には遂に18ホールコースが完成し、1902年は男子よりも早く全米女子アマが開催されるに至りました。以降女子は1941, 1995年の計3回、男子は1910年を皮切りに2013年まで計6回の全米アマが開催されています。
1913年には待望の全米オープンが開催されますが、ここでゴルフ史に残る素晴らしいドラマが誕生します。
この大会でメダルを手にしたのは、ここでキャディを務めていた20歳のアマチュアゴルファー、Francis Quimet, そしてキャディがEddie Loweryという10歳の少年でした。
大会でEddieの兄がQuimetのキャディをしないことから弟の彼がニュートンからブルックラインへとやってきます。身長とキャディ経験の不足から大会側はEddieを認めようとはしませんでしたが、しかしここのキャディであったQuimetは「どのクラブを打つか、どのようにホールを攻略するかを知っているのは自分自身であり、バッグも自分が担ぐ。しかし私には自分を信じ奮い立たせてくれるパートナーが必要だと述べ、Eddieの了解を取り付けます。
The Openの覇者でもあったHarry Vardon , Ted Rayの両者とプレーオフになった時、クラブ関係者はQuimetにベテランのクラブキャディに変更するよう進言しますが、Quimetは自身にとって最大のチェアリーダーとティに立っていました。
クラブハウスに飾られた写真にはQuimet自身が署名したサインの横に「これは1913年のオープンに優勝した少年の写真です。 This is the boy who won the 1913 Open」と書かれています。
この劇的な優勝は後世に伝えられ、2005年には「The Greatest Game Ever Played」のタイトルで映画化されました。
10歳のEddie少年をキャディに優勝したアマチュアFrancis Quimetのサクセスストーリーは全米のトップニュースとなり、そして一大ゴルフブームが湧き起こります。
それは当然ながらThe Country Club Brooklineにおけるゴルフコースの価値を高めるものとなりました。ゴルフ希望のメンバーは増え、1927年にはShinnecock HillsやMerionの設計でも知られるWilliam Flynnが新しい9ホールのPrimrose courseの設計とメインの18ホールの改修をし、The Country Club Brooklineは全米のトップコースの仲間入りを果たします。
それは同時にクラブにおける競馬場とゴルフコースの立場が逆転したことを示すものでした。ゴルフをやや見下していた競馬レース委員会は1930年に閉鎖、乗馬クラブは1960年代後半まであったことからレーストラックはその時まで残されていました。
1963年にここで開催された全米オープンではそのレーストラックが1番と18番ホールの周りを囲むようにまだ残されていました。この2ホールのグリーンへのアプローチにはレーストラックのレーンが横たわります。
それはThe Country Club Brooklineの歴史を伝えるものでした。
次回はThe Country Club Brook Lineにおける27ホールの中からトーナメント用にCompositeされた18ホールのルーティングのあり方を詳しく解説したいと思います。
今大会に向けてコースはそのルーティングも変更しました。また2018年から2020年にかけて、名匠Gil Hanseによってオリジナルへの回帰をテーマにRestorationされたこのコース。
メジャー大会ではペブルビーチについで小さいとされるグリーン、狭いフェアウェイ、地形の高低差24メートルのスロープラインに生まれるブラインドショット、同じ全米オープン会場となったHanseが手がけたWinged Foot West Courseとの違いなども解説したいと思います。
Text by Masa Nishijima
Photo Credit by The Country Club Brookline, The Story of Golf at The Country Club. Co-Operated by Fred Waterman, Paul Rudovsky