GOLF Atmosphere No.82 2021年度総括編「ロッカールームトーク」 PART 1
今年も残すところ1ヶ月余り、コロナ渦の中で2度の師走を迎えました。東京クラシッククラブも早いもので創設5周年を迎え、その中で乗馬施設の充実、グランピング、自家製農園、更にはフィンランドサウナを設けるなど、年々カントリークラブとして施設の充実が図られています。
海外の名門同様にプロショップを別棟にしてその空いたスペースをライブラリーとして活用されているところはお洒落なAtmosphereの空間です。
そして他のクラブハウスにないものがロッカールームに置かれた雑談、カード用のテーブルと椅子です。米国のプライベートクラブのロッカーにはこのようなテーブルだけでなくソファーまでも雑談スペースとして設けられているクラブが多くあります。
メンバーたちはそれをフルに活用されているようです。彼らにとってロッカールームは他愛のない事までも話せるメンバーたちだけのプライベートな空間だからです。皆様たちはロッカールームトークされていますか?
ではここから皆さんたちとロッカールームトークを致しましょう。
1. グリーンハウスの復活
以前こちらのコーナーでもご紹介させて頂いた神奈川県藤沢市善行にある旧藤沢カントリークラブのクラブハウス(1932年築 設計Antonin Raymond)、通称「グリーンハウス」が18ヶ月の修復工事を終え、昨年2月に完成を致しました。
4月から五輪合宿の練習会場の事務所及び会議室として再開の予定でしたがコロナ禍の中、その役目は果たせず、今年10月より2階のロビー右手の会議室の利用と3階の資料室が見学できるようになりました。
但し、感染予防から資料室見学も1週間前からの予約、グループは5名までと1日の入場者制限がされております。資料室は旧藤沢カントリークラブ時代のセピアカラーの古い写真や当時の倶楽部資料が展示され、また神奈川県でも行われたラクビーW杯や五輪に関する資料も展示されています。
真珠湾攻撃から始まった開戦の火蓋から今年で80年が経ちました。
80年前の昭和16年12月8日に真珠湾攻撃は行われました。米国時間7日未明の事でした。グリーンハウスには旧藤澤CCの華麗なるクラブ史を伝える石碑が今も資料室に保管されています。
そこには80年前の12月7日、朝香宮殿下が米国大使を招いてクラブコンペが開催された記述が刻まれています。下の写真をご覧下さい。赤く染められた箇所がその記述です。
大使を招いての盛大なパーティは夜7時過ぎまで行われていたとの事です。
そこから僅か8時間後、真珠湾で開戦の火蓋は切られたわけです。
真珠湾攻撃が皇族たちにも知らされて居なかった軍の機密事項であった事がわかります。深夜にそれを知らされたであろう、大使や朝香宮殿下、メンバーたちはどんなお気持ちだったでしょうか。
現在グリーンハウスは神奈川県立スポーツセンターの受付事務所にもなっています。グリーンハウス見学をご希望の方はお電話で0466-82-6395までお問い合わせ下さい。
旧藤沢CCはC.H.Alisonの設計でもあった・・。
今回グリーンハウスの事を改めてご紹介した理由には、この秋に米国のゴルフ史家グループが日本の東京GC旧朝霞コース、広野GC、川奈富士コースを設計したC.H.Alisonの痕跡を調べる中、旧藤沢カントリークラブの設計にも深く関与していた事実が判明したからです。
日本では設計者の名は赤星四郎だけになっておりましたが、Alison自身、日本での作品リストにこの藤沢CCをFujiCC(1932)と記しており、赤星にバンカリングの配置と# 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 18番ホールのレイアウトの変更を指示したようです。
確かに図面を見る限り、それは東京GC旧朝霞コースの設計や霞ヶ関CC東コースの改造でも見せたAlisonならでわのホール間をまたぐコネクテッドバンカー群やグリーンの絶妙な配置が描かれていました(PS. 御殿場の富士カントリークラブは同じ赤星四郎の作品ですが、開設は1958年でAlisonとの繋がりは一切ありません)。
旧藤沢カントリークラブが現在のグリーンハウスとなるクラブハウスだけを残して1943年に海軍航空隊の訓練基地になりました。
戦後は復興されることなく日本オープンも開催された幻の名コース、戦前のゴルフ界を担った名士たちの記憶の中に残るロストリンクスとして語り継がれていきます。
Alisonは1931年1月に大倉喜七郎と共に川奈に移動する際、この藤沢CCの現場に立ち寄り、数日過ごした後に川奈へ。そして川奈から東京へ戻る際に再度藤沢の現場に立ち寄り赤星四郎に指示を出しています。いかにこの藤沢のプロジェクトに強い関心を持っていたのが分かります。
旧藤沢CCの設計者はC.H. Alisonだった記述が残された資料の中に、川奈の創設者大倉男爵のストーリーを紹介したブルックリンデイリーニューヨーク誌の記事が保管されていました。
その記事を見ると東京GCをフランス語のようにTokio Golf Clubと紹介されています。この記事を発見したのはGOLF Week誌のコースパネリストでゴルフコース研究家が集うGOLF CLUB ATLASのメンバーでもある建築家のAnthony Gholz氏です。
彼はFrank Lloyd Wrightの建築に大変関心を持ち続けている中、帝国ホテルの建築でWrightを日本に呼び寄せた大倉喜八郎の息子大倉喜七郎の存在が英国コース設計界の巨匠Harry. S. Coltのパートナーとして当時米国で活躍していたAlisonを日本に招聘する際、深く関与していたのではと述べています。
しかしColtを経由してAlisonに設計を依頼した当時の東京GCの倶楽部史には何故か大谷男爵の名はメンバーであっても登場してきません。
歴史というのはその時の権力者、組織の構図によってやや歪められ伝えられる事はよくあります。
特に庶民性になかった時代のゴルフ界で賢者たちは特定層の地位を崇めることで自らの地位を保ってきました。男爵の地位にありながらも大倉喜七郎もその世界の一人だったのかも知れません。
2. Drivable 3は新用語になるか。
コース専門家たちが集うGolf Club Atlasにゴルフチャンネルのキャスターの一人からDrivable 3という用語をTVで活用しても良いだろうか? という質問が届きました。
Drivable (ドライバブル, 又はDrive-able=ドライブエーブル)とは主に1オン可能な短いShort Par 4を指して使う用語で、1 Shot Par4とも言います。しかしそれらはけしてサービスホールではなく、グリーンを外せば大きなリスクを伴うRisk & Reward(リスクと報酬)の理論から成り立っています。
昨今のメジャー大会では、ペンシルベニアの名門Oakmont の8番のように、280~300ヤード前後の一般ゴルファーならばドライバーを選択しないと1オンが可能にならないようなレングスのロングPAR3が登場し、ゴルフキャスター達はこれを新しい用語でクールに伝える方法はないかと考えていたようです。
そこでDrivable 3の案が登場しました。
Drivableとはドライバーを選択すれば1オン可能なPAR4からスタートした用語であり、1 Shot Holeと呼ばれるように1オンがバーディへの最大の条件とされるPAR3には当てはまらないというのが大半の意見です。
ここで上記の写真をご覧ください。カリフォルニアの名門 Cypress Pointの16番PAR3です。
最大のレングスは230ヤードですが、オンショアな風が吹く時は、スクラッチゴルファーとてドライバーでも届かないケースが多々見られます。このような条件の場合、賢者なゴルファーたちはグリーンへと繋がる左サイドのアプローチエリアに確実にレイアップし、2オン1パットのオールドマンパーの哲学を用います。
英国の名門 West Sussex GCの6番パー3はこのコースの名物ホールでしょう。
池越えのレングスは最大でも230ヤード弱、縦長の後方から手前に流れる強いスローピンググリーンはアゲインストの風が強い日はリスクの条件を提供するでしょう。しかしここもCypress Pointと同じようにティショットをアプローチエリアにレイアップし、オールドマンパーの賢者の選択を用いることができます。
そして重要なポイントはこの二つのホールが設計段階ではPAR4の設定で考えられていたLong PAR3であった事です。
リンクスのテイストからクラシック設計理論を確立させた米国ゴルフ界の父、C.B. Macdonald, 彼の迂回ルートを持ったドライバブル4のサハラホールとケープホールの設計理論は、Cypress Point, West Sussexでは迂回ルートを持ったPAR3へと進化していきました。
この事からかつてPAR4であった230ヤード以上のLong PAR 3ホールをプロのトーナメントの世界ではなく、我々一般アマチュアの飛距離で測定するならば、Drivable 3の表現は使えるかも知れません。
年末には2021年度総括パート2として欧米の新情報をメインにロッカールームトークを致しましょう。
Text by Masa Nishijima
Photo by グリーンハウス, 善行雑学大学、Masa Nishijima, Anthony Gholz,
Larry Lambrecht, West Sussex GC, NGLA