No.43 著名コース設計家シリーズ ➊
日本ゴルフ草創期、クラシックコース理論を伝えた男
チャールズ・ヒュー・アリソン(Charles Hugh Alison)
By MASA NISHIJIMA
1882年 プレストン、ランカシャー州 イングランド生まれ
1952年 ヨハネスブルク 南アフリカ没
アリソンの真実
1882年英国ランカシャー州プレストンの町で生まれ育ったアリソンは、後にオックスフォードのカレッジに進学、ここではゴルフとクリケットの名選手として知られ、ゴルフではケンブリッジとの混合代表チームの一員として、1903年に米国遠征し、見事勝利を収める。卒業後、ジャーナリストとして活動し、後にロンドン郊外のStoke Poges GCにてセクレタリーを務める。そしてこのコースの設計家であり、後にコース設計界の巨匠と称えられたハリー・コルトと出会い、コース設計の世界へ導かれ、ロンドン周辺のコース造成でコルトのパートナーとして働くようになる。
第一次大戦後、兵役を終えたアリソンは、正式にコルトのパートナーとなる事を決心する。この頃からアリソンはコルトにとってなくてはならない存在となった。海岸線のリンクスランドから内陸にコースが造られるようになると、景観性造園学、所謂18ホールを構成するランドスケープのあり方が重要視されてきた。アリソンはこの部門で天才的才能を発揮する。
当時同じようにコルトによって設計界に導かれたアリスター・マッケンジーやジョン・F・モリソンも共にチームを組んだ。マッケンジーは自らの設計の世界を開拓する為に、コルトの元を離れ渡米、後にボビー・ジョーンズと共にオーガスタナショナルを設計する。アリソンもコルトの代役として1925~30年半ばにかけて、その大半を米国での仕事に従事し、ニューヨーク、デトロイトに事務所を構えたりもした。当時の米国は第一期ゴルフ場建設ブームにあり、実際、アリソンが残した作品は、母国英国よりも米国の方が遥かに多かったのは意外にも知られていない。またオーストラリアやマーレシアからも設計依頼が舞い込んでくるが、中には現場に足を運ぶ事なく、設計図面だけを送る仕事も多かった。
設計家同士の交流がアリソンを変えていく。
米国でのアリソンは米国人設計家達の招きには時間の許せる限り参加していた。そこで自らの設計理論を論じては彼らの造成現場にも積極的に足を運んでいたらしい。かつて同僚であったマッケンジーが西海岸で作品を発表すると、長い列車の旅を苦ともせず、その場に駆けつけたという記録もある。英米の名設計家達のアイデアを集積した世界ナンバー1コース、パインヴァレーゴルフクラブの開発には、コルトと共にアリソンも設計のアドバイスを提供している。アリソンはそんな米国生活の中、設計家として僅かずつ変化をしていく。それまでの巨匠ハリー・コルトの古典的な英国調のコンセプトから、米国の大地に相応しいスケールのあるレイアウトの取り方等、その作品の中に英国との違いを表わしていくようになる。
設計家として最盛期に訪日する
アリソンがそのコルトの代役として日本に訪れたのは、丁度設計家として絶頂期の1930年12月の事であった。彼は東京ゴルフクラブ朝霞コースの設計を描き終えた後、赤星四郎が設計し造成中だった旧藤沢CCに立ち寄り、バンカリングとレイアウトの一部の変更を指示、その後立ち寄った伊豆の川奈では、四郎の弟、六郎が担当していた富士コースを、ルーティング、レイアウト全体の変更を指示し、結果自らが設計に着手し、帰国後(図面はデトロイトの事務所から送られた)に図面を送る約束をする。そして関西へと入り、廣野ゴルフクラブの設計を請けるのである。東京も川奈も廣野もアリソンが滞在中に工事が始められたわけではない。予定用地をくまなく歩き、そこで的確な指示のもとに図面を書き下ろし、スケジュールが空いた日には鳴尾、茨木にも訪問し、改良のアドバイスをした。その後、関東に戻り、旧藤沢CCの現場確認後、霞ヶ関CCにてグリーンの配置移動とバンカリングの変更をアドバイスした後、第一クライアントである東京GCの現場に戻り、そして日本を後にしている。約3か月滞在の旅であった。
日本を離れ、一度英国に戻ったアリソンは、欧州でのプロジェクトを中心に活躍する。1930年代半ば、コルトが正式に引退をしたが、アリソンはモリソンと共に会社を継承する。そしてそれぞれに独自のプロジェクトを持つようになる。1949年彼は仕事で南アフリカに飛び立つ。そして三年後同地ヨハネスブルクにて人生の幕を閉じた。享年70歳であった。
検証。廣野ゴルフ倶楽部は英国調のコースだろうか。
さて本題の廣野ゴルフ倶楽部に入る。日本で廣野は今日までの長い間、アリソンが残した英国調のクラシックコースと称えられていた。しかしかねてから、これに一石を投じる者達がいた。世界中の名門をくまなくプレーしてきた米国人のコースマニアやその専門家達である。彼らは廣野を絶賛しながらも以下のように述べている。「廣野だけは日本のクラシックコースのレベルではない。英米とのコンセプトの調和に日本の風土がミックスした作品なのだ。世界中探してもこれほど完成されたアリソンの作品はない。何かが他と違う。ティーグランドからは米国クラシック調であり、アプローチは英国的クラシックの香りがする。またその逆のパターンを演出するホールもあり、振り返る度に不思議な気持ちにさせられる。」
数年後、彼らの疑問を解く鍵が実は廣野のメンバーのひとりによって保管されていた。彼は先代の父が残した開設当時の廣野の写真を集め、クラブメンバーの協力を得て、今年一冊の本として発表した。廣野を訪れた外国人達にも理解できるようすべてが英語で紹介されている力作である。タイトルはRecord of Hirono Golf Course 1933」。モノクロに映し出された当時のコース写真に、設計家アリソンの真髄を語るべき箇所が随所に写されていた。そして専門家達の疑問はこの一冊の本によって解明された。
設計家アリソンを語る一冊の写真集
数枚の中には1900年代初頭、米国に初めて本場スコットランドリンクスのテイストを持ち込んだ設計家C.B.マクドナルドのホール攻略理論、旧友アリスター・マッケンジーのグリーンエッジの出し方等、アリソン自身の世界でない、設計を多角面から捉えたアイデアもこの廣野に持ち込んだふしがその写真から見え隠れする。更に開設当時のパインヴァレーを思わすようなホール写真の数枚も残されていた。25年前に広野を訪れたクラシック派のコース設計家トム・ドォークは、この1933の写真集を眺めながら呟いた。「我々にはやっとアリソンという人物が見えてきた。彼は米国クラシックの理論も日本の大地で見せていたように思う。廣野を昔の姿に戻すならば、世界中のコースマニアにどれだけの衝撃を与えるであろうか。アリソンは日本の大地に自身の理想とする英米の名ホールの理論を描いていた。」
米国人コース写真家マイク・クレーメは、かつてこのような事を述べていた。「偉大なスケールを持つコースは、その写真がどれだけ古かろうが、そのスケール感は生涯映し出されているものだ。」クレーメ氏が言うように、廣野のモノクロ写真は何年の月日を経ても、専門家達から見れば、そのスケール感は正確に映し出されていた。
戦後の動乱が廣野を変えた。
廣野は戦中時、コースは芋畑になり、軍の滑走路としても使用される予定だった。その為にアリソンの傑作は見る影もなく、無残にも壊されていった。戦後の動乱からのメンバー達による復興作業、その絶え間ない努力により、コースは序所に元の姿に戻りつつあった。しかしアリソンが英国出身者という事から、廣野は僅かずつではあるが、英国調のコンセプトで修復改造が成されてきた。しかしこれは当時の倶楽部側の判断ミスではない大きな理由がある。天才ランドスケーパーと称えられたアリソンが、樹木の景観を重要視する設計家であった事だ。米国でも植栽によりコースの美観を整えるアイデアをコルトと共に発表していた男である。また開設当時、樹木が伐採されていた周辺の山々も深い樹林で覆われるようになる。そして廣野もその景観に合わせるよう植栽が行われた。時は過ぎ、樹林の成長により、コースは日本的な樹木や草花の景観を重視するパークランド指向へと変貌していく。しかし植栽が行き過ぎた為に、アリソンが描いた米国クラシックに見るレイアウトのスケールは、その自然の景観の中に隠されていってしまった。グリーンも当初はベント芝で造られたものが、戦後は高麗芝になり、そしてまたベント芝へと移行していく、その中でグリーンの形状も僅かであるが変化をしていった。そして廣野は日本的な造園美という美しいが体には合わない間違った服を着せられていく。
現在のスケール感が誤りを生む。
後に日本人は、国の至宝コースである廣野から設計における戦略性という言葉を見出そうとしたに違いない。だがクラシック時代に生きたアリソンが求めていたものはけしてそうではなかったはずだ。いくつもの攻略手段をゴルファーに提供し、そこにヒロイックとぺナルな要素を取り入れていったクラシックコース時代の男である。スコットランド、ノースベリック15番のパー3、有名なレダンホールの理論からも生まれた1パット=パーセーブの理論は2パット=パーを基準とした設計的戦略性ではない、攻略理論である。
米国のクラシック時代初頭、C.Bマクドナルド等は、その大作の中から、攻略法の楽しさを伝えていった。中にはグリーン周りに大きなエプロンを設け、ピンの位置状況によっては、1パット=パーセーブのオールドマンパーの精神にも通じる理論を演出しようともした。マッケンジーも米国で同じような試みをしていた。当然米国にも在住していたアリソンもそうであった。グリーン前後部にスケールを広くとり、クラシック設計の基本となったセント・アンドリューズオールドコースのピン手前から攻めるだけがゴルフでない事も、彼は日本に伝えていった。現在はそこに樹木が立ち並び、当然ながら攻略は設計の戦略という言葉に置き換えられてくる。
戦後の設計家達は廣野を誤って解釈したのか。
戦後米国のモダンコース時代が日本にも上陸する。そこにはクラシック時代の理論から、ホールはグリーンに向かってフェアウェイが絞られるようにあるのが理想という理論が設計の定義となった。しかしフェアウェイはおろか、ラフを含めたプレーゾーン全体までもグリーンに向かって小さく絞り込めとはクラシック時代の設計家は誰も唱えていない。そしてモダン理論を小さなスケールで無理に追い求めた結果、グリーンの形状すらも単調にならざるを得なくなってくる。単調になってしまった分、ハザードとしてバンカーや池を手前に並べるだけで、はたしてそれが戦略性と呼べるだろうか。
幸いにも廣野はそのモダン理論には一切触れずにきたが、戦後、日本のクラシックコース理論は、戦略性を重視するが故に、実際持つべきクラシックコースのコンセプトを間違えて解釈されていたのでは?と疑心を抱かせる作品が多い。自然の地形が見せるスケール感が無視されているのだ。
廣野を真似たグリーン、バンカーの形状、しかし彼らが創り出すホールレイアウトの取り方は、常に定められたプレールートだけがベストとされ、グリーンは単純な2パットグリーンが基準であった。廣野が持つオリジナルのスケールが他の日本のコースに観られないのはそこにある。
ヤーデージが短いと思えば、そればかりに注意が払われ、レイアウトされたホール用地の端隅にグリーンやティーが置かれた。そこにグリーン周りに見るスケール感あるクラシックの設計理論はあると言えるであろうか。ティーから見せるフェアなホールの自然な地形は存在したであろうか。
廣野よ、着せられた服を脱ぎ、その逞しい体を見せてくれ。
戦後まだコース用地に余裕があった日本では、廣野以上のコースが誕生してもおかしくなかった、そうあって然るべきだった。しかし70年経った現在もそれは存在しない。それは悲しいかな、廣野の歴史におけるアリソンとそこに生きたクラブ関係者達によって完成されたその大作を、今日まで日本人が深く理解していなかったひとつの哀しい証でもある。
それを1933という写真集が我々にそれを証明してくれたように思う。そこには70年もの間に着せられた樹木による造園美という服をまだ着ていない逞しい廣野の骨格が写し出されていた。それはまさに英国調だけでない、米国クラシック理論を唱えたスケール感である。廣野の魅力はどれだけ改造されてもその評価が下がる事はない。それはアリソンによって設計された完璧なるレイアウトから生まれたランドスケープの美しさが、廣野の最大の魅力として残されているからである。現在廣野は堂々世界ランキング40位に輝いている。だが開設当時のオリジナルは、あのオーガスタナショナルを押さえ、何と世界ランク7位に評価されたとてつもないコースであった。戦後に生まれた日本のクラシックコースは、その服を着せられた廣野の姿を理想として造られていた。日本独自のジャパニーズクラシック設計の理想はそこから誕生した。ならば今一度、廣野を開設当時のオリジナルの姿に戻してもらいたいと願う。これだけの骨格を整えたコースである、失敗は絶対にない。来年、広野は英国人コース設計家Martin Ebertによりオリジナルへの復元が行われる。世界中が今、その復元に注目している。
By MASA NISHIJIMA
参考資料
パインヴァレーGC設計と改造に関与したアドバイザーリー委員会の設計家達
George Crump
H.S. Colt
C.H. Alison
Water Travis
A.W. Tillinghast
- Fowness and Simon Carr
Hugh Wilson
Alan Wilson
- Flynn
George Thomas Jr
Perry Maxwell
主なアリソンの作品
作品に関わる設計及び造成パートナー(略字)
w/ JM=John F Morrison, HC=Harry Colt AM=Alister Mackenzie
英国
Burnham& Berrow 1947 修復改造プラン
Brancepeth Castle GC 1924 w/ AM
Fullwell Middx 1947
Kingsthorpe Northants 1908 w/HC
Moor Park GC 1923 w/AM
Muirfield 1925 改造w/HC
Royal St.George’s 1930 改造 w/HC
Royal Belfast 1927
Royal Lytham and St.Annes 1930 改造
Stokepoges 1908 w/HC
Sunningdale(New) 1922
Swinley Forest 1910 w/HC
Wentworth GC 1924 w/HC. JM
アイルランド
Castle GC 1913 w/ HC
Royal Dublin 1921 改造 w/ HC
County Sligo 1922 改造
欧州
Royal Waterloo Belg 1923
Copenhagen Den 1926 改造 w/JM
Granville FRA 1912/22 w/HC
Le Touquet Mer FRA 1930 w/HC
St. Germain FRA 1922 w/HC, JM
Chantago FRA 1928 w./JM
St.Cloud(Yellow) FRA 1931 w/JM
Haagsche NETH 1930 w/HC
Eindhoven NETH 1930 w/HC
Kennemer NETH 1928 w/HC
De Pin Utrechtse NETH 1929 w/HC
Hamburger Falkenstein GER 1930 w/HC.JM
Aachuner GC GER 1927 w/JM
Frankfurter GER 1928 w/JM
Hamburger Land und GC 1935
Puerta de Hierro SPA 1915
Real Gold de Pedrena SPA 1928 w/JM
Stockholm GC SWE 1932 改造 w/JM
北米
Briarwood ILL 1921
Burning Tree MD 1924 w/AM
Canoe Brook(North) NJ 1924
Century NY 1926
Colony CC NY 1923
Columbus OH 1923修復
Davenport Iowa 1924
Detroit CC MI 1927 改造
Fresh Meadow NY 1925
Highland Park ILL 1924 改造
Kirtland CC Ohio 1921
Milwaukee CC WIS 1929
North Shore CC ILL 1924
Old Oaks NY 1927
Orchard Lake CC MI 1926
Park CC NY 1928
St.George’s G&CC Ontario 1921設計プランのみ
Sea Island GA 1928
Timber Point Ohio 1927
Westwood CC Ohio 1924
日本
Hirono GC 1932
Kasumigaseki 1930 改造リポート
Kawana Fuji 1936
Kawana Oshima 1936 改造リポート
Tokyo GC(旧朝霞コース) 1932
Fujisawa CC(旧) 1932
Naruo GC 1931 アドバイス
Ibaraki CC 1931 アドバイス
アジア
Royal Selangor Malaysia 1931 改造
オーストラリア
Huntingdale 1941
ニュージーランド
Auckland 1941
Maungakiekie GC 1946
北アフリカ
Tangier Morocco 1939 改造
南アフリカ
Bryanston 1949
Royal Cape 1906 プランのみ/1951 改造)
Crown Mines 1949 アイデア
East London 1923/1946 改造
Glendower 1938
Johannesburg CC 1948 改造アドバイス
Verreniging 1938