No. 64 寒立馬
大寒波に見舞われた日本列島。
中でも寒さ厳しい本州の北端、青森県・下北半島の尻屋崎には、「寒立馬(かんだちめ)」と呼ばれる馬たちがいます。
「東雲に 勇みいななく寒立馬 筑紫野の原の嵐ものかは」
1970年(昭和45年)、風雪に耐える馬たちの姿を見た尻屋小中学校の岩佐勉校長がこの歌を詠んだことから、寒立馬は多くの人々に知られるようになりました。
彼らのルーツを遡ると、なんと!千年以上。
日本書紀には、東北地方の視察を終えた武内宿禰が朝廷に「土地肥沃にして馬多し」と報告し、ぜひ討伐すべしと進言したことが残されています。
中世の初め頃には現在の青森県下北半島から岩手県北部に至るまでの広大な地域に陸奥国糠部郡(ぬかのぶぐん)が置かれ、九ケ部四門の制(くかのぶしかどのせい)が敷かれました。
これが今もこの地に残る「戸」の始まりであり、一戸から九戸まで続く戸こそ「牧」。それぞれの戸に牧場を設け、地域の特産物とも言える馬の生産に力を注いだと考えられています。
吾妻鏡には「戸立」(へだち)という記載が残り、馬の中でも一戸から九戸で生産された馬は特別に糠部駿馬として珍重されました。
もちろん、由来は諸説ありますが、日本の歴史に名を残す名馬「いけずき」「するすみ」「ごんたくりげ」もまた、それぞれ七戸立、三戸立、一戸立だったと伝えられるほど、当時はこの地の馬たちが持て囃されていたのです。
その後、鎌倉時代の武将・南部光行とその子孫、一族がこの地方をおさめるようになると、この地域で生産される馬たちもまた「南部馬」としてその名を日本中に轟かせ、馬産はこの地域の発展に大きな役割を果たします。
そして、戦乱の無くなった江戸期には農耕馬としての需要にも応え、南部氏率いる盛岡藩の基幹産業の一つでもありました。
ところが1904年(明治37年)、千年を超える南部馬の種を絶滅に追い込む大政策が始まります。日清日露の戦争において、欧米列強との「軍馬」の差を目の当たりにした明治天皇は「馬匹改良」の勅令を下します。それは、馬の体格や資質の改良に留まらず、馬にまつわるあらゆる知識や技術の向上も意味し、内閣総理大臣の直轄機関として国を挙げて、早急に取り組む必要のある重大な課題だったのです。
今振り返れば、種の保護も大切ですが、当時は軍馬こそが国力。国の存亡をかけた政策に、誰もが疑いの余地も無く邁進していきます。中でも馬産に長けた南部の人々は、大型の外来種との交配を成功させ、次々と名馬を生み出し、陸軍による軍用馬買い上げにも大いに貢献しました。
そして、その結果として日本固有の南部馬は姿を消したのです。
けれでも、今なおこの地域が日本有数の馬産地であることには変わりありません。
南部馬の子孫である寒立馬は、日本在来種よりは少し大きく、持久力があり、粗食にも耐え、寒さを凌ぎ尻屋崎の地に生きています。
ただ、近代化の流れには抗えず、農耕馬としても荷役馬としても需要が無くなり、ここに生まれる馬たちの中に食用肉となる馬がいることも事実です。
反面、2002年には寒立馬とその生息地が青森県の天然記念物に指定され、保護・保存される対象にもなりました。現地の役場や畜産農協、さらにはボランティアの保護団体などの働きかけにより生存頭数も増え、この地を訪れる観光客を楽しませています。
地元の人々には「野放馬(のばなしうま)」と呼ばれてきた寒立馬は、放牧状態のまま冬を越しますが、決して放置されているわけではありません。アタカと呼ばれる防風林には飼料庫が設けられ、人の手によって栄養管理も行われています。出産の時期を迎えると、母馬はアタカ近くの囲いの中入り、仔を産みます。そして生まれた仔馬は間も無くして人の温もりを知るのです。
南部の人々に愛され、翻弄され、共に生き続けてきた寒立馬。彼らの存在はその盛衰の歴史を今に伝えています。
MILKY KORA
馬ジャーナリスト / Maraque編集長。京都生まれ。
幼い頃から馬術を嗜み、乗馬専門誌の編集を経て馬ジャーナリストとして独立。2010年に世界最高峰のホーススポーツを伝えるEquine Journal Maraqueを、さらに2014年にはより専門性の高いMaraque for Professionalを創刊。現在は日本で唯一のホーススポーツ専門誌として発行を続ける傍ら、ライダーのマネジメントや馬イベントの開催など馬に関する幅広い活動を行っている。