世界には、その国の文化や歴史を映し出したユニークな競馬がたくさんあります。

実は、日本の有馬記念もその一つ。

どこがユニークなのかというと、出走する馬をファンによる投票で決めるという点。

一般的に、競走馬はその能力や実績、年齢や性別など客観的なデータによって区分けされ、どのレースに出走するかは、オーナーやトレーナーの判断で決められます。

ところが、有馬記念では毎年11月中旬から12月初旬に2週間程度の投票期間を定め、広く一般からの人気投票を実施。

もちろん、選ばれた馬たちが出走を辞退することはできますが、基本的にはこのファン投票の上位10頭と、過去の競走成績等から選ばれた馬たちだけが、有馬記念を走ることができるのです。

まさに、大衆競馬と称される日本の真骨頂、それが有馬記なのです。

そして、このシステムを導入した人物こそが、伯爵・有馬頼寧(ありま・よりやす)でした。

1884年(明治17年)、旧筑後国、久留米藩主有馬家当主で伯爵有馬頼万(ありま・よりつむ)の長男として東京に生まれた頼寧は、東京帝国大学農科を卒業後、欧州遊学を経て、農商務省に入省。さらに、1924年(大正13年)に立憲政友会から衆議院議員総選挙に出馬し、当選すると、政治家として農政に携わるようになり、1932年(昭和7年)には農林政務次官、1937年(昭和12年)には農林大臣を歴任するなど、出世の一途を辿ります。

ところが、時は戦争真っ只中。第二次世界大戦での敗戦から公職追放となり、引退を余儀なくされた頼寧に、再び声がかかるまでには10年の歳月がかかりました。

戦後、1954年7月1日に日本中央競馬会法が公布されると、「日本競馬の父」安田伊左衛門(やすだ・いさえもん)が初代理事長に就任。(ちなみに、彼の名を残したのが安田記念)その翌年、安田の強い要請により第2代理事長として、頼寧はようやく表舞台に返り咲きました。

頼寧は、水を得た魚のように競馬の改革に乗り出します。

矢継ぎ早に施設の増改築に着手すると、国際的な発展も視野に事業拡大を目指すと同時に、ファンサービスにも力を入れ、短波放送での実況中継の開始やPR専門機関の設立など、大衆化を一気に推し進めます。

中でも、プロ野球のオールスターゲームを模して、ファンの人気投票によって出走馬を選出するレースとして創設されたのが「中山グランプリ」でした。

1956年(昭和31年)、中山競馬場で初めて行われたグランプリは、競馬ファンによるファンのためのレースとして大成功をおさめましたが、実は、老朽化の進んだ中山競馬場の補修に必要な費用を捻出するための起死回生の妙案だったのだそうです。

けれども、レースの興奮冷めやらぬお正月の9日。頼寧は急性肺炎により突然、この世を去ります。在任中の逝去、そしてわずか2年弱という短い在任期間に成し遂げた功績を讃え、第二回の中山グランプリは「有馬記念」と改称され、今もその名を残しています。

今年、66回目を迎えた有馬記念には、ファン投票第一位のエフフォーリアを含む16頭がエントリー。競馬ファンによるファンのためのレースは、12月26日(日)15時25分にスタートを迎えます。

 

MILKY KORA

馬ジャーナリスト / Maraque編集長。京都生まれ。
幼い頃から馬術を嗜み、乗馬専門誌の編集を経て馬ジャーナリストとして独立。2010年に世界最高峰のホーススポーツを伝えるEquine Journal Maraqueを、さらに2014年にはより専門性の高いMaraque for Professionalを創刊。現在は日本で唯一のホーススポーツ専門誌として発行を続ける傍ら、ライダーのマネジメントや馬イベントの開催など馬に関する幅広い活動を行っている。