©︎Tokyo Classic

4月21日、東京クラシックで木曽馬の赤ちゃんが産まれた!

そんな知らせに、「会いに行きたい!」と思ったもののSTAY at HOMEのご時世、それも叶わず、写真で見る仔馬に想いを馳せながら、日本在来馬の一つ・木曽馬についてお話しできればと思います。

古くから日本に生息し、外来種との交配がほとんど行われず、日本固有の種として生きてきた木曽馬は、現存する日本在来馬8種の中でも唯一、本州でその命を繋いできました。

彼らの故郷は、その名の通り木曽地方。さらにその起源を遡ると、モンゴル周辺の中央アジア原産の馬が、中国大陸から朝鮮半島を経て日本に伝来したとされ、その時期は遅くとも6世紀。中央高地で出土した最も古いウマは4世紀末のものと考えられています。

以来千年。

山岳地域の厳しい自然環境に適応し、粗食に耐え、頑丈な足腰を備えた木曽馬は、田畑に厩肥を与え、農耕馬として人と共に働き、時に中山道の険しい峠を越える荷馬としても役立ち、木曽の人々にとって欠かせない存在となります。さらに、武士の台頭より乗用馬としても重宝されるようになると、彼らは挙って木曽に駿馬を求めたのです。

ところが、長く続いた戦乱の世も治まり、木曽に残った馬たちを見返せば、小さく貧相な馬ばかり。優駿ほど高値で他国へと買われていたのです。これを憂い、木曽馬の再興に乗り出したのが尾張藩で木曽代官を務めた山村家でした。

かつての領主・木曽家が「馬も土地と同様に領主の所有であり、領民が借りて飼養し、農耕や運搬に使役するからには年貢を納めるべし」と定めた「毛附馬制度」に加え、「留馬制度」を導入します。

これは、謂わば馬の戸籍制度。生まれた馬の毛色や特徴を記入し「馬籍」を作ると、自由売買を禁止し、死亡した馬の届出まで義務付けました。そして、翌年の半夏の前日に馬体検査を行い、合格であれば「留馬」としてもう一年飼養し、不合格であれば売却を許可します。

さらに、二年目の馬体検査で合格となるのは、わずか15~20頭。当時の生産頭数について正確な記録は残っていませんが、これを毎年、毎年繰り返し、選ばれし雄馬だけが繁殖を続けることで、木曽馬は再びその地位を取り戻し、将軍家や藩主へと献上されるようになりました。

 

この木曽馬の復活は、江戸年間を通して木曽代官を務めた山村家の功績であると同時に、木曽の人々の絶え間ない努力の結晶でもありました。飼養期間が延びれば、それだけ負担も増大します。ましてや、人が冬を越すのも厳しい山間で、ひとたび飢饉に見舞われれば、人だけでなく馬も飢えるのです。

それでも、馬の命を絶やすことなく、繁殖を続けられたのは木曽の人と馬との深い絆があったからに他なりません。元来、木曽馬の小柄な馬体は共に働く働く女性にも扱いやすく、短く丈夫な肢は山道を得意とし、何より彼らの温厚な性格が木曽の人々に愛されてきたのです。

ところが、明治の幕開け、近代化の波が押し寄せると同時に、木曽馬には幾多の試練が訪れます。明治天皇の勅令による在来馬の馬格改良計画、徴用による飼養頭数の激減、さらには機械化等による人の生活スタイルの変化。木曽馬にとってこの百年は、千年、千五百年と生き長らえてきた彼らの存続すら脅かす重大な変化でもありました。

 

けれども、この危機から木曽馬を救ったのもまた、木曽の人々でした。長年の経験から木曽馬の大型化を極力拒み、中には私財を投じて雄馬を守ることもありました。終戦後には、逸早く木曽馬の復活に乗り出し、土地に残った50頭あまりの繁殖牝馬を確認すると、県内から御神馬として残されていた純血の木曽馬を探し出し、その血脈を残しました。また、1969年には木曽馬保存会を発足。1983年には長野県の天然記念物として認定を受けるなど、今では地域全体で木曽馬を未来へと繋ぐ取り組みが続けられています。

 

人を助け、人に助けられ、人と生きてきた木曽馬。その木曽馬の仔が、東京クラシックで産まれたのです。世界中がCOVID-19と戦う真っ只中の4月21日、この世に生を受けたこの女の子もまた、きっと私たちに力を貸してくれることでしょう。少なくとも今、この写真を見てホッと優しい気持ちになれたのですから。

©︎Tokyo Classic

 

 

MILKY KORA

馬ジャーナリスト / Maraque編集長。京都生まれ。
幼い頃から馬術を嗜み、乗馬専門誌の編集を経て馬ジャーナリストとして独立。2010年に世界最高峰のホーススポーツを伝えるEquine Journal Maraqueを、さらに2014年にはより専門性の高いMaraque for Professionalを創刊。現在は日本で唯一のホーススポーツ専門誌として発行を続ける傍ら、ライダーのマネジメントや馬イベントの開催など馬に関する幅広い活動を行っている。