Astley ampitheatre 1807

 

今ではすっかりその主役の座をピエロに奪われましたが、一昔前までサーカスの主役といえば、もちろん馬!

その証拠に「現代サーカスの父」フィリップ・アストリー(Philip Astley)は、大層な馬術家だったのだそうです。

父の指導の下、フィリップが馬に乗り始めたのは9歳の頃。以来、熱心に練習を続け、1759年、17歳で騎兵連隊に所属します。そして、長身も身体つきも、周囲より一回り大きなフィリップは、どこへ行っても目立ちました。

中でも、彼に目をつけたのはフェンシングの達人、ドメニコ・アンジェロ(Domenico Angelo)。

ドメニコは剣術を直接指導するようになると、フィリップは瞬く間に腕を上げ、1761年には、いわゆる七年戦争のために、アメリカ大陸へと赴きます。

その後、伍長から少佐へと昇進したフィリップは、イギリスに帰国。1766年、25歳で除隊すると、いよいよ馬術家としての道を歩み始めました。

Philip Astley

 

18世紀後半、イギリスではトリックライディング(=馬の曲乗り)が人気を博したこともあり、フィリップもまた、ロンドンの南・サリーに乗馬学校を開設します。そして、騎兵時代に培った経験や技術を上手に組み立て披露すると、たちまちスターライダーへと躍進したのです。

当初から、円形のアリーナでパフォーマンスを披露していたフィリップですが、翌年には、新たな敷地を確保し、そこには屋根を取り付けました。どの場所からでも見やすい円形に加え、ロンドンの憂鬱な天気から解放される屋根付きの円形アリーナは、見事に観客の心を捉え、わずか2年でフィリップは大成功をおさめました。

ただ、ここで慢心しなかったことこそ、後にサーカスが世界へと広がった一番の理由だったのでしょう。フィリップは「観客を魅了し続けるためには、さらなる工夫が必要だ!」と考えたのです。

Astley’s Riding School

 

そこで、誕生したのが「道化師」。つまりピエロでした。馬とのアクロバティックなパフォーマンスの合間に、道化師によるダンスやパントマイムなどを取り入れ、終始観客を飽きさせないプログラムを作り上げました。

さらに、恒久的にパフォーマンスを披露できる施設として、ダブリンやパリにも施設を確保すると同時に、公演ツアーも始めます。いずれもの場合も、フィリップがこだわったのは、馬とピエロ、そして円形アリーナ。そして、これを興行として確立させたのです。

余談ですが、当初のピエロは、必ずしも滑稽な姿で笑いを取る存在ではありませんでした。ピエロが現在のような姿として定着するまでには、さらに100年ほどの歳月を要するそうなので、その話はまた別の機会に。

 

Astley’s training method

 

程なく、この興行はヨーロッパ、ロシア、アメリカへと広まり、馬以外にも様々な動物が用いられるようになり、曲芸の幅も広がり、いつしか「サーカス」と呼ばれるようになりました。

もちろん、日本にもやってきました。フィリップのロンドン公演から約100年後の1864年、「アメリカ・リズリー・サーカス」が横浜で行った公演が日本初のサーカスでした。それまでにもあった人や動物による芸の見世物では無く、劇や歌舞伎のように幕のある興行は、当時の人々を大いに沸かせ、注目を集めます。

続く、1871年にはフランス、1886年にはイタリアからも来日公演が行われるなど、サーカスは日本でも一大ブームを巻き起こします。同時に、我こそは!と国内でも一座が組まれるようになり、庶民の娯楽として広く親しまれるようになりました。

ちなみに、当時の日本での呼び名は「曲馬団」。サーカスという言葉が定着したのは昭和になってからのことだそうです。

Astley’s Lambeth Plaque 

Photo by www.circopedia.org

MILKY KORA

馬ジャーナリスト / Maraque編集長。京都生まれ。
幼い頃から馬術を嗜み、乗馬専門誌の編集を経て馬ジャーナリストとして独立。2010年に世界最高峰のホーススポーツを伝えるEquine Journal Maraqueを、さらに2014年にはより専門性の高いMaraque for Professionalを創刊。現在は日本で唯一のホーススポーツ専門誌として発行を続ける傍ら、ライダーのマネジメントや馬イベントの開催など馬に関する幅広い活動を行っている。