No5. Take over the world
人類史上最大の帝国を築いたモンゴル帝国の初代皇帝・チンギス・ハーン曰く、『鞍こそ肝要なり!』
と、本当に言ったかは定かではありませんが、鞍の発明無くして、広大な領土の支配など成し得なかったことは想像に難くありません。
何よりもまず、鞍は馬への乗り心地を格段に向上させ、長時間の騎乗を可能にしました。また、鞍に付属する鐙(あぶみ:足を置く部分)の開発は、乗り手の姿勢を安定させることに役立ち、人はこの鞍と鐙によって俊敏な馬の動きに随伴し、巧みに馬を乗りこなすようになったのです。
そして、馬銜(ハミ)をはじめ、鞍や鐙などの原始的な馬具を最初に使い始めたのは、アジアの騎馬民族だったと考えれています。早くから文明が発達し、騎馬や騎射に長け、他の地域との交流も活発だったことから、彼らの発明は瞬く間に世界を制していきました。
とは言え、『鞍のような役割を果たす物』の発明は紀元前に遡り、チンギス・ハーンの時代には、既に木製の鞍が使われ、様々な創意工夫が施されていました。特に馬の背に優しく、乗り手にも心地良く、分相応に美しく飾られた鞍ともなれば非常に高価で貴重な逸品。誰もが容易に手に入れられるものではなく、鞍もまた駿馬や馬車と同じように、富と権力の象徴として権力者たちを魅了していたのです。
蛇足ですが、『鞍を以って世界を制した』のは、遠い昔のことばかりではありません。近代において、見事にそれを体現しているのが、あのエルメスではないでしょうか。
馬具工房に端を発し、皇帝や将軍をも顧客としていたエルメスは、時代の変遷と共に事業の多角化に成功。今なお最高峰のファッションブランドとして、世界中のセレブリティに愛されています。
実は人が馬に乗るにあたり、直接、人が馬に触ることはありません。手には手綱、脚には鞍、馬車であればなおさら、人と馬には距離があるのです。そして、その間を取り持つのが馬具です。言い換えれば、大切なパートナーの身体に直接触れるのは馬具だけなのです。
けれども、一言で馬具とはいえ、その数は限りなく、形態も大きさも長さも千差万別。さらに、馬具で馬の身体を傷つけることはもちろん、使っている間に壊れてしまうようでは元も子もありません。
中でも鞍は、一頭一頭異なる馬の背を採寸し、馬の動きを妨げず、ライダーの身体にも合うオーダーメイドが基本です。構造が複雑で工程も多い上に、二つとして同じ形は無いわけですから、優れた鞍作りは至難の技。上質な皮革の目利きから洗練された革の扱い、抜群の縫製は、エルメスの卓越した技術力の証でもあるのです。
2010年『原点回帰』を掲げたエルメスは以来、毎年春にSaut Hermèsを開催。パリのグラン・パレを舞台に世界トップレベルの馬とライダーを集めたジャンピング競技会の傍ら、会場内では馬具職人による鞍作りのデモンストレーションを披露し、その高い技術力を誇示しています。
まさに、鞍こそ肝要なり!
MILKY KORA
馬ジャーナリスト / Maraque編集長。京都生まれ。
幼い頃から馬術を嗜み、乗馬専門誌の編集を経て馬ジャーナリストとして独立。2010年に世界最高峰のホーススポーツを伝えるEquine Journal Maraqueを、さらに2014年にはより専門性の高いMaraque for Professionalを創刊。現在は日本で唯一のホーススポーツ専門誌として発行を続ける傍ら、ライダーのマネジメントや馬イベントの開催など馬に関する幅広い活動を行っている。